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ブックマーク / blog.goo.ne.jp/inemotoyama (2)

  • “女工哀史”の著者「細井和喜蔵」とその妻 - 耳を洗う

    <婿養子に来ていた父が私の生まれぬ先に帰ってしまい、母は七歳のおり水死を遂げ、たった一人の祖母がまた十三歳のとき亡くなったので私は尋常五年限り小学校を止(よ)さなければならなかった。そして十三の春、機家(はたや)の小僧になって自活生活に入ったのを振り出しに、大正十二年まで約十五年間、紡績工場の下級な職工をしていた自分を中心として、虐(しいた)げられ蔑(さげ)しまれながらも日々「愛の衣}を織りなして人類をあたたかく育(はぐ)くんでいる日三百万の女工の生活記録である。地味な書き物だが、およそ衣服を纏(まと)っているものなれば何びともこれを一読する義務がある。そして自らの体を破壊に陥れる犠牲を甘受しつつ、社会の礎(いしずえ)となって黙々と愛の生産にいそしんでいる「人類の母」━彼女たち女工に感謝しなければならない。> 『女工哀史』冒頭の「自序」で著者の細井和喜蔵はこう訴えている。『女工哀史』初版

    “女工哀史”の著者「細井和喜蔵」とその妻 - 耳を洗う
    o-kojo2
    o-kojo2 2014/12/09
    素敵な記事
  • 朝鮮人BC級戦犯の記録:『キムはなぜ裁かれたのか』を読む - 耳を洗う

    まず、書(内海愛子著『キムはなぜ裁かれたのか』/朝日選書)のカバーにある内容紹介を見ておこう。 <連合国によるBC級戦犯裁判では、朝鮮人148人が有罪となり、23人が死刑になっている。なぜ多くの朝鮮人が戦犯になったのか。 戦時中、日軍は捕虜の扱いを決めたジュネーブ条約を無視し、連合軍捕虜の4人に1人が死亡した。その捕虜監視を朝鮮人に当たらせていた。裁判では、命令に従うしかなかったにせよ、個人の責任が厳しく追及されたのだった。 戦後、「日人」としてスガモプリズンにつながれ、釈放後は「外国人」として補償や援護の対象からはずされ、「対日協力者」として祖国にも帰れなかった朝鮮人戦犯たち。彼らを30年間追ってきた筆者は、裁判記録と人証言をつきあわせ、現場を歩き、被害と加害が錯綜する歴史の真相を明らかにする。彼らはなぜ、何を、裁かれたのか。植民地支配、捕虜政策、戦争裁判、戦争責任を検証し、彼ら

    朝鮮人BC級戦犯の記録:『キムはなぜ裁かれたのか』を読む - 耳を洗う
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