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アメリカ大統領選
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日本を愛するのは日本国民だけ? 「公務員になりたければ帰化すればいい/外国人採用問題 自民総 務会で異論」という見出し記事を、11月27日付けの朝日新聞が 報じていた。先の総選挙の結果、まがりなりにも自民党単独政権が 復活したことにともなって、歴史の流れに逆らう右寄りのホンネが、 自民党の総務会のなかで噴出してきたのだ。少し長くなるが、この 記事の一部を引用しておこう。 「地方公務員への外国人採用問題は、22日に白川勝彦自治相が 『任用の機会を広げる』との方針を表明。戦前、戦中に日本に連行 されてきた中国人や韓国・朝鮮人、その子孫らが、公務員の採用に 日本国籍を必要とする『国籍条項』の撤廃を求めてきたことに配慮 した。 総務会後に記者会見した森喜朗総務会長によると、松永光代議士が 『きわめて間違いだ。危険だ』とこの問題をとり上げ、『公務員に なるものは地方を問わず、日本人であるべきだ。公務
前回のエントリーでは、実践面からいえば、どういう行為が「不当」なのかについての議論を国会と裁判所に丸投げしてしまうのも一つの合理的な解決策だと紹介しました。合理的というより、それ以外に方法がないといいますか。 しかし、実をいうと、「机上の空論とはこのことか!」と謗られてもしかたがない暴論だと、ぼくは思っています。佐藤さんの議論は、学術的には美しいんだけど、いつも実践面が弱いんだよなぁ。 だって、人権侵害の被害を回復したり、被害の発生をなくしたりするのが実践的な目標ですよね。人権侵害かどうかの判断を国会や裁判所に丸投げしたうえで、その目標が実現されるためには、国会や裁判所が人権侵害をしないという前提がなければなりません。でも、ぼくの知るかぎり、国会も裁判所も、少なくともぼくの判断では、たくさん人権侵害を重ねてきましたからね。とてもそんな信用はできないわけです。差別と政治というのは、どうもウマ
不当性を要件としているかぎり差別を客観的に定義することはできない、というのが前回のエントリーでした。かといって、不当性をまったく定義に含まないというのもなかなか難しい。 前回の議論を整理する意味で、ひとつ別の定義を紹介しましょう。新保満先生が岩波新書で使った非常にシンプルな定義です。永遠の名著『人種差別と偏見―理論的考察とカナダの事例』(1972年)より。 「差別は特定の社会集団に所属していると見なされる個人に対する異なる取り扱い」 つまり、新保先生は、(1)特定の社会集団(ないし社会的カテゴリー)に所属しているという理由で、(2)異なる取り扱いをしたら、それだけでもう差別だ、というわけです。すばらしい。オッカムの剃刀とはこのことか、と思わせる美しい定義です。 この定義において、「異なる取り扱い」が不利益を生ずるかどうかは問われません。なるほど、他人からはうらやましく見える特別待遇でも、当
以下は2000年3月ごろに在日メーリングリストに投稿した雑文です。思いつきで 書きなぐったものですが、人によっては参考になる部分があるかもしれません。 何かのヒントになれば幸いです。 *******ここから******** 金明秀です。この宿題をやってて、自分は理論家には向いていないと自覚を深 めつつあります(^^;)。長文ですので、関心の薄い人はすっとばしてください。 1.受益層/無利害層/受苦層 社会的資源が動くとき、それによって利益を受ける「受益層」、不利益をこう むる「受苦層」、どちらでもない「無利害層」の3つのグループが成立します。 たとえば、ゴミ焼却処理施設が建設されるとき、施設の近隣地域の住民は「受 苦層」、その施設にゴミを排出する住民は「受益層」、どちらでもない人々は 「無利害層」です。 新しく国家として独立した多民族社会で、最大民族集団の言語を「国語」にし ようとするとき
在日朝鮮人に関するオンライン・ドキュメント集 (Last Updated: ) [ HAN-A面 ][ HAN-B面 ][ ブログ ] 著者 タイトル ジャンル Fukuoka,Yasunori "Koreans in Japan: Past and Present" 論文 Fukuoka,Yasunori "Beyond Assimilation and Dissimilation: Diverse Resolutions to Identity Crises among Younger Generation Koreans in Japan" 論文 Fukuoka,Yasunori Yukiko Tsujiyama "MINTOHREN: Young Koreans Against Ethnic Discrimination in Japan" 論文 福岡安則 「在日」と日本人との共生
ある学問分野において、もっとも基本的な事物を指し示す言葉を「基礎概念」といいます。基礎概念を組み合わせることによって、他の抽象度の高い概念を説明する、という形で学問という論理の体系が構築されていきます。したがって、基礎概念を定義することは、通常、その学問の入り口ということになります。 ところが、差別論において、「差別」という概念を定義することは、学問の入り口どころか、むしろ究極のゴールの一つとされています。なかなか上手に定義できないんですね。 例えば、2009年末に出たばかりの差別論の教科書を見てみましょう。好井裕明編『排除と差別の社会学』(有斐閣選書)です。いい本ですよ。おまけに、この分野には授業でそのまま使える教科書は少なかったから、貴重な本でもあります。 この本の中で差別の定義というと、冒頭でアルベール・メンミ『差別の構造』という古典からさらっと差別主義の記述が紹介されているだけです
はじめまして ごく平凡な日本人です。在日の方の置かれている 状況や差別等について比較的無知なこともあって、 このBoardはとても興味深く拝見しています。 このHPやリンク先の関連HPなどを拝見し、昨今の 日韓・日朝関係を併せて考えてみましたところ、 多少の疑問を持ちましたので、思い切って投稿さ せて頂くことにしました。もし、本Boardの趣旨に 反しないようであれば、コメントなど頂ければ幸い に存じます。 私の疑問とは、一言でいえば、在日の方は、日本人 と何事であれ共有することを拒絶しているのではな いか、ということなのです。 何故そのように考えたか、と申しますと、在日の方 が、余りに韓国・北朝鮮の政策・行動・主張に対し 無批判であるように見えるからです。 過去の出来事について、在日の方の基本的立場は韓 国・北朝鮮と同じなのでしょうから、日本人や日本 社会に対する主張が似かよるのは当然だ
二日前だったか、ぼくのエントリーへの批判を読んだ。他の人たちのコメントは賛成意見であれ反対意見であれ、巧拙を問わず、それなりに興味深く読ませていただいているが、その批判だけは身につまされるものがあった。 その理由は、第一に、在日コリアンの若い子が批判者だったこと、第二に、おそらく四世の世代であるにもかかわらず、批判の内容が二世的なルサンチマンを引きずった痛々しいものだったこと、第三に、したがって批判の内容はぼくが若いころに民族運動家から受けた理不尽な批判を思い出させるものだったこと。 批判の内容そのものは愚にも付かないものだったけれども、傷ついて防衛的になって過敏になって、そして傷口をさらけ出しながら必死に社会に向かって何かを訴えようとしている様子が痛々しくてね。21世紀にもなってこんな子がまだいるのか。その批判がコトもあろうにオレを向いてるのか。 ツイッターで話しかけてみると、じつは日本
差別についての研究には、ずいぶん多様なアプローチがあります。学問分野は心理学、社会学、経済学、政治学、等々と多岐にわたっているし、手法もミクロなものからマクロなものまで様々です。 その中で、直感的にわかりやすいためでしょうか、(一昔前の)心理学分野の研究は一般にもよく知られているように思われます。偏見理論、社会的比較の理論、権威主義的態度、あたりです。とりわけ、偏見理論は差別についての通俗的解釈ともよく合致するため、道徳教育の一環として行われる人権教育においても頻繁に言及されています。 ここでいう偏見理論とは、「偏見」という心理的な準備状態があるから「差別」という行為が発生する、という前提を含む研究群の総称です。一般には、「差別意識が差別を生む」という表現のほうがなじんでいるかもしれません。「差別は心の問題である」というとき、偏見理論が想定されていることが多いように思います。 でも、当の心
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人権教育について市民意識調査を実施すると、自由記述欄によくこのような内容のことが書かれてきます。 「小中の同和教育で、初めて被差別部落について知った。同和教育があったから、被差別部落の存在も知ったし、差別される存在であるということも知った。それによって、自分との違いを意識するようになってしまった。いわば、同和教育によって、私の中に、ある種の差別感が芽生えていってしまった。同和教育なんかないほうがいい」 授業で人権教育について言及したときも、かなりの学生がミニッツペーパーにこういう趣旨の感想を書いてきますね。 しかし、この意見はナンセンスです。なぜならば、「学校の同和教育によって被差別部落について初めて知った人」は、「近隣や親、友人、知人、先輩などからインフォーマルな形で部落についての情報を初めて聞いた人」に比べて、被差別部落への差別的態度が明らかに弱い、ということが各種の調査からわかってい
これまでにいくつかの大学で差別研究について教える機会を持ったことがあります。その種の講義(以下、「差別論」)では、学生たちに繰り返し繰り返し、3つの留意事項を伝達する必要がありました。 差別問題は「被差別者の問題」ではないこと 家族やメディアといったほかのテーマと同じように差別という題材に向き合うこと 形式的な「正当/不当」(誰が「悪い」のか?)の結論を急ぎすぎないこと 3つは同根の問題ですので、すべてを合わせて「安易に《犯人探し》をするな」と言い換えてもかまいません。でも、少しでも具体的なほうがわかりやすいでしょうから、3つに分けて説明していきましょう。 1はvictim blamingとして知られる問題ですね。「被差別者の問題」という発想がいかに非論理的であるかを毎回のように説明しておかなければ、ミニッツペーパーに「今回の事例は差別される側に問題があると思います」と書いてくる学生が必ず
はてなのブクマコメントですが、面白いものすべてにリプライするのはムリなので、ちょっとだけピックアップさせてもらいます。 その前に、ぼくがここに書いた一連のエントリーに対して、かりにぼく自身がコメントするならば、指摘するだろう主たる論点が2つあります。第一に、差別という現象に学術的に接近しようとすると、差別の解消を目指す運動は部分的に後退せざるをえなくなるんじゃないのか。第二に、もし学術的にも実践的にも、「差別者=悪人」という強固な前提が邪魔になるとしたら、差別研究の発展も差別の解消も、永遠にムリなんじゃないのか。 これらの論点そのものは見当たりませんでした。でも、これらの前提となるロジックをどこかに内包するブクマコメントが以下の2つ。 hal9009 そもそも差別ってそれを悪として駆逐するための概念ではなかろうか。それを前提としてこの調査の結果に対する意味づけを考えると鈍感な奴・人権につい
前回のエントリーで、「趣旨をきちんと理解できた人はそう多くなかったかもしれません」なんて書きましたが、それについて補足を。 本音を言うと、一連のエントリーはやや応用的なので、差別論に関する基礎知識がないと、もともと感受性の豊かな人でないかぎり、上手に要点を捉えることは難しいと思っていました。具体的には、(1)クレームのあった事例が「差別」かどうかは重要ではないこと、(2)「差別」にはどのような表出形態があるか、(3)victim blamingとは何か、(4)傷つけようという悪意が差別の原因というのは大間違いであること、を知っていないと味わえない話ですからね。これまでの経験則からいって、いくつかのエントリーを読むだけで理解できる人は「1割に満たないだろう」という判断でした。 ところが。李怜香さんがはてなブックマークに登録した後、かなりの数のコメントが付いたのですが、その内容が結構いいのです
セクハラ問題にせよ差別問題にせよ、多くの人権問題は、事象そのものよりも、事象に付帯して続発する様々なできごとが事態を面倒なものにします。言い換えると、人権問題は、起こったときより、起こった後のほうが問題になりやすいのですね。 たとえば、以下の事例を考えて見ましょう。 (1)まず、「差別発言」が起こります。 東京出身のAさんが、同僚でアイヌ出身のBさんに対して、「きみはクマさんみたい」と発言しました。Aさんにはまったく悪気はなく、クマさんのように愛嬌があってかわいらしい、ぐらいの意味で好意的な発言をしたつもりでした。 (2)ところが、アイヌは侮蔑的な意味をこめて「クマ」と呼ばれて差別されることがあります。 そこでBさんは、(Aさんの発言意図がどうであれ)、「アイヌに向かって『クマ』と呼ぶのは差別的な意味合いがあり、不愉快だ」と抗議しました。 (3)Aさんとしては、好意的な発言に対して「差別」
なんだか、前回のネタははてなブックマークで賛否両面から大人気でした。でも、いくつか前提となる知識がないとピンとこない応用的な内容でしたので、趣旨をきちんと理解できた人はそう多くなかったかもしれませんね。今回は、前回のエントリーの統計学的な根拠を少し紹介しましょう。 かつて敬愛する先輩が差別論の授業資料をウェブで公開していて、その中に興味深い調査のアイディアが記載されていました。具体的な場面をあげながら、「次のいろいろなことがらを差別だと思うかどうか、1から3のうちでもっともよくあてはまる番号をそれぞれ選んでください」と尋ねます。それによって、「差別の存在を認めない/認めやすい傾向」を測定しようというわけです。 先輩には無断でしたが、即、非常勤先の「社会学入門」を受講している学生を対象に調査をしてみました。(結果は翌々週の授業のネタに使いました。じつは、前回のエントリーは、その「翌々週の授業
銃弾により、あるいは爆弾により、その恐怖や怒りを語る間もないままに、一瞬のうちに生が絶たれる。傷を負い、理不尽な痛みに襲われる。その場所が今後、元のままである保証も、戻ることができるという保証もないままに、住み慣れた場所をあとにする。数日前まで、市民社会の一人として、人と共に、人の中で生きていた人が、今、人を殺すための道具を手にし、名前も知らない「敵の兵士」に対峙する。何らかの事故が取り返しのつかない惨劇に繋がりかねない原発施設が、軍事力により制圧される――。 私たちは、こうした現実を前に、事態がさらに深刻化することを憂慮しつつ、ロシア連邦のウクライナ侵攻を断固として非難する。人の命を奪うことで、あるいは奪われる恐怖を人に与えることで、政治的、領土的な目的を達成しようとすることは決して許されない。私たちはロシア軍の即時撤退を要求する。 一方で、私たちは、ウクライナ侵攻に対する責任を負うロシ
昨日紹介した講演は、記憶の中では結構上手にこなしたことになっていたのですが、テープ起こしを読んでみると何を言っているのかわからない箇所がたくさんあります。もう少し上手にしゃべれるといいんですけどね。 わかりにくかったからというわけではありませんが、今日も同じテーマを違う角度で書いておきます。 「朝鮮学校がサッカーの地域代表になったとき、それを応援しなかったのは差別だという話がある。でも、朝鮮学校に知り合いはいないし、別に応援したいと思わなかったから応援しなかっただけ。それを差別だといわれるのはおかしい。最近、差別差別だといいすぎじゃないか。」 なるほど、一理あるように聞こえます。「コーラは好きだけどオレンジジュースは好きじゃない。おなじリクツで、東海大仰星なら応援し、大阪朝鮮高なら応援しない。それは単なる好みの問題であって、差別じゃない。それを差別というなら、ご飯よりパンがすきだというのも
前回のエントリーで、「衝突壁」については別の機会に、と述べましたが。でも、よく考えてみると、2003年ごろに中学校の先生方を対象とした講演会で同じようなことをしゃべったことがありましたので、そのテープ起こしの内容を紹介することにしましょう。 ―――――― しかし、ナショナリズムに関するどういう情報を、どういったふうに消費していったらいいのか、おとなたちも迷っているというのが現状です。左右両翼が入り混じって《国家的な自分探し》をしている感じですね。そうなると、高校生たちなんか、ナショナル・アイデンティティを模索し始めたばかりだし、まして、中学生ぐらいになるとはじめてナショナリズムというものを意識化するようになったばかりという年齢層でしょう。ナショナリズムが自分探しとリンクしているような気がするけれども、その正体はわからない。 そういうときにどうするか。「日本人としてのぼくはどうすればいいのだ
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