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道徳に関するaozora21のブックマーク (24)

  • 教育的であることと科学的であること。 - 小学校笑いぐさ日記

    「水からの伝言」とかに関連して、まだ頭の中で整理できていないこと。 科学というのはまさに人類の希望だと思うし、一方で、「ありがとう」と言うと水の結晶がどうとかこうとかいうのは科学的とは言えません。 にもかかわらず、道徳の授業で「水からの伝言」を使ってしまうのは、教師の科学リテラシーに問題があるからだ! ……と言い切ってしまうのは簡単なんですけど。 先日、児童指導主任が、子どもたちに話していたこと。 「人間には、お口は1つ、お耳は2つありますね? だから、自分でお話するよりも、相手の話を2倍よく聞かないといけないんです」 いい話だなー、と思いつつ、ちょっとひっかかったことでした。 耳が2つあるのは、目が2つあるのと同様、音がどの方向から来るのかを立体的に把握するためでしょう。 (進化に目的はない、という根的な話はさておき) いわゆる「立体音響」というのは、これを逆用した技術ですね。 だから

    教育的であることと科学的であること。 - 小学校笑いぐさ日記
    aozora21
    aozora21 2010/08/23
    『「人間の道徳に科学的裏付けがある」という発想そのものが非科学的なのではないか』/様々なことが科学によって日々解明されていくスピードとスキルに追いつけなくなって逆に非科学に寄りかかってしまう楽だから…
  • ホームレスと労働 - 鰤端末鉄野菜 Brittys Wake

    まず、以下でいう労働というのは労働市場における賃金労働のみをいい、家庭内の主婦の労働や無給ボランティア活動などを指さない*1。 その上で、id:chnpkさんの発言。 ホームレスとはつまり、労働をしないという意志の象徴的存在であって、概念としての非道徳、即ち悪なのである。 ホームレスに人権があるだなんてただの屁理屈だよ - よそ行きの妄想 妄想はchnpkさん、あなたのほう。ホームレス、とりわけ都市のホームレスが、ゴミ回収やあるいは日雇いなどの賃金労働に従事しているのはすでに各種調査や統計などで指摘されている*2。 2007年の厚生労働省の調査によれば、ホームレスの7割は就労し、その平均月収は約4万円である。 (3)仕事と収入の状況 ○ 仕事をしている者は70.4%(64.7%) → 主な内訳は「廃品回収」が75.5%(73.3%)と最も多い ○ 仕事による収入月額 ・「1〜 3万円未満」

    ホームレスと労働 - 鰤端末鉄野菜 Brittys Wake
    aozora21
    aozora21 2009/01/25
    『少数派だろうと多数派だろうと、その行動によってではなくある外形的な性質によって規定された人々の集団に道徳性うんぬんをいうことは、たんなる錯誤なのではないだろうか?』
  • 坂のある非風景 否認は避妊か

    ヘルムート・コールは、遅れて生まれてきたためにホロコーストに関与できなかったドイツ人の苦境を簡潔に表現するために「遅れて生まれたことの恵み」という言葉を使った。そのとき、多くの評論家は、この表現は道徳的あいまいさと日和見主義を表しており、今日のドイツがホロコーストの責任を回避できるということをいわんとしているとして、それを拒絶した。しかし、コールの表現は、バーナード・ウィリアムズによって「道徳的運」と名付けられた、道徳の核にある逆説に触れている。 道徳的な態度が維持されるのは、けっきょく、運なのだという見方があるのは、道徳は、行為の偶発的な結果に依存するほかないということを歴史が明かしているからである。別にホロコーストを例にとる必要はない。私たち(の大多数)は過剰な快楽や誘惑に、あるいはとんでもない拷問や国家的な洗脳にさらされないという運に恵まれて、はじめて尊厳ある道徳家の姿勢を貫くことが

    aozora21
    aozora21 2008/05/10
    『ましてや社会人の尊厳の意識は、脱落者に依存している。厳密には「感性的なもの一般」に対する否認に依存している。立派な人は、なぜそんな本質的なものを否認できるのか。』
  • 炎上時における傍観者一個人の感情について - Diary Blog of Dary

    「うわべだけ規則に従って、規則違反はコッソリやるべし」という規律は、「健全な社会」にとって極めて重要である。(炎上と、<他者>のメンツを立てること) - 草日記を見て違和感を感じたので、ちょいと書いておく。 ネットにおける炎上はいくつかのパターンが存在するが、今回はDQN犯罪告白系の炎上についてのみ書く。DQN犯罪告白系の炎上とは、ある人物がブログなどで、「こんなんしたよ〜」と友人に雑談するかのごとく、低モラルな行為を告白している(そして人は悪いとの認識薄い)のを主に2chの住人が発見して、以下略な炎上の事を指す。タイムリーな話で言えば、「テラ豚丼」とか「テラ豚丼に対抗して、ゴキブリのケン○ッキーゆとり揚げ」とかで、他にもキセルの件から発覚した中学生と淫行の末孕ませた件とかエアロバキバキの件とか当て逃げ動画の件とか、まあ他いろいろ。 こーゆーのを見ているときの自分の感情とは言うと、カタル

    炎上時における傍観者一個人の感情について - Diary Blog of Dary
    aozora21
    aozora21 2007/12/08
    清潔に育てられたゆえのジレンマ、というのは自分の世代にも感じることがある。例えば一部のフェミニストとかその周辺で。「昔は良かった」もそう感じる。
  • 差別は道徳の皮を被る - z0racの日記

    言及エントリを個別に批判するつもりはないが、同様の主張を何度か見たので言及しておく。 無断リンク禁止がネットの常識になるって? そんなことはありえないんですよ 要約すれば、「無断リンク禁止が常識になることはないんだから、気にせずリンクすればよい。嫌だと云ってきた相手はリンクを削除すればよい」という主張。 頭から相手の主張を聞く気がない上、要求だけは聞き入れることで反論機会すら奪う。差別の典型パターンである。 言及エントリをして即差別だと批判する気はないが、それが差別のパターンであることだけは指摘しておきたい。 また、相手の主張には全く取り合わずに「相手の嫌がることをするのはやめよう」と云うのは、大いなる欺瞞でもある。 差別はこういう形でも「道徳の皮を被る」のだ。

    差別は道徳の皮を被る - z0racの日記
  • 心のノート - 我が九条

    河合隼雄氏が亡くなり、氏が携わった『心のノート』が少し話題にもなっているようだ。『心のノート』は文部科学省が著作責任者となっている冊子である。2002年7億8000万円を投じて作られ、全国の小学生・中学生に配布されたようだ。翌2003年には文部科学省から『「心のノート」を生かした道徳教育の展開』という「道徳教育推進指導資料」を発行された。道徳教育のための冊子なのだ。 ブログでもしばしば取り上げてきた石原千秋氏はその中の小学校5・6年用の「権利と義務ってなんだろう?」というページの次の文章を取り上げる。 たとえば、やるべきことをやらずに自分の権利だけを主張する人がいたとしたら、あなたはどう感じるだろうか。 あるいは、他人の権利は認めないのに、自分の権利を押し通そうとする人がいたら、あなたはなんと言うだろうか。 このとき、あなたが感じたこと、言おうとしたことに「権利と義務」について考えるヒン

    心のノート - 我が九条
  • 格安ビニール傘は、共同傘になっている? - OhmyNews:オーマイニュース

    格安ビニール傘は、共同傘になっている? 盗まれるのが嫌なら、名前を描きますか みなみ 優(2007-07-13 15:00) 15年ほど前に、梅雨のない地方から関東へ引っ越した。その時、ちょうど梅雨時期で、羽田空港で飛行機を降りた途端に、ジメジメした空気に触れて、 「ああ、この先ずっとジメジメした季節を過ごすことになるのだな」 と、気持ちが、少しどんよりした。 何年か東京に暮らしてみて、透明や白のビニール傘を買ったり、持ったりしている人が多いのに驚いた。同時に、傘はよく盗まれるモノだということにも気がついた。 今は100円ショップやコンビニなどで、急な雨が降っても、すぐに傘を調達することができる。しかし、同じくらい失くしてしまうことも多いのが悲しい。 私の周りにも、ビニール傘を愛用している人たちがいる。彼らは、その傘が盗まれることを、それほど悲しいとも、もったいないとも思わない

    aozora21
    aozora21 2007/07/16
    以前上京したとき羽田から池袋に出たら大雨になった。街に捨てられているビニール傘を拾って使って、駅で捨てようと思ったらゴミ箱が見たらなくて困った。いっそ皆で使いまわすとか<ビニール傘
  • 2007-05-19

    茨城県では今年から高等学校での「道徳」を必修化したそうです。今日は一般の人(?もしかしたら父兄)にその公開授業が行なわれたと、12時の関東ローカルのNHKニュースで流れていました(NHK茨城県のニュースでは現時点でヘッドラインにありませんで紹介されています↓下の追記に)。画面で紹介されたのは水戸商業高校の授業風景。それではと水戸商のサイトを訪れてもカリキュラムに「道徳」はありません。あれと思って検索すると、「道徳:茨城県教委、高校で必修化 1年生対象に今年度から」という毎日新聞の記事がひっかかり、その中で「授業は1年生対象で年間35時間。総合学習の時間を利用する。」という記述があって、そういうことかとわかったのでした。 茨城県教委は今年度から、県立高校106校全校で「道徳」を必修化した。都道府県内の全公立高校に義務付けるのは全国で初。「ほぼ全員が高校に進学する時代。確固たる価値観と、社会に

    2007-05-19
  • 応答責任、再論 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    応答責任について、再度確認しておこう。 たとえば、ほっておけば自分では何もできないであろう赤子*1がいて、それを見ている人がいるとする。その人は、その赤子の面倒を見るのだ、と決意したとする。ある人は、そこで初めて倫理的責任が生じたのだ、と言う。そして、そうした何らかの手続きを経てその人に引き受けられた責任にしたがって、その赤子の面倒を見る、つまり、責任を果たす。──しかし、こうした記述は、私たちが無力な者を目撃するときに生じている様々なことどもを、きちんと捉えているだろうか。 次のような問いを立ててみよう。赤子の面倒を見ると決意したその人が、決意する前に考えることは一体何であろうか。明らかなことは、その人は決意する前には何ら強いられるような感覚を感じず、自らの意志によって決意したときに初めて何かの強いられる感覚を感じる、というようなものではないということだ。私たちは、決心しようとしまいと、

    応答責任、再論 - モジモジ君のブログ。みたいな。
    aozora21
    aozora21 2007/05/09
    応答責任について。『私たちが重荷に思う事実についての概念であり、責任概念が存在するものの位相に由来を持つことを捉えようとする概念である。』
  • 道徳的詐術とは何か、その2 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    先のエントリでは「x0000000000さんの主張が道徳的詐術である、という論証はどこにもなかった」とだけ述べ、uumin3さんの記事そのものは引用さえしないですませた。むしろ、x0000000000さんの議論を上書きする形で、僕自身の立ち位置を書いた。いわば、構築的に議論を進めたということだ。今回は、uumin3さんの批判記事を具体的に引用しつつ検討し、そちら側から見えるものを明らかにしていこうと思う。今回も、「道徳的詐術」@uumin3の日記を取り上げる。 あらゆる責任に先行する応答責任 私がコンビニに持っていった「その200円」がなかったばかりに一家四人が死んだという仮定。これがまずあり得ないことを言っています。もしそこをアクロバティックに結びつけ得たとしても、そこで私が「その200円」をアフガニスタンのその家庭に贈ったために足りなくなった200円で、パキスタンの子供が飢えて死んでし

    道徳的詐術とは何か、その2 - モジモジ君のブログ。みたいな。
    aozora21
    aozora21 2007/05/08
    とすると姥捨山問題と200円募金では負うべき責任は別々のものであるような気がする…のですが理解が浅いのかも。続きをお待ちしています。
  • http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2007042790080734.html

  • Living, Loving, Thinking-山崎正和 on 道徳教育

    承前*1 kechackさん*2、わざわざありがとうございました。 さて、Livedoor Newsにこんなのがあった; ヤクザの凶弾に倒れた長崎市長・伊藤一長氏の遺志を継いで市長選に立候補した横尾誠氏(40)に注目が集まっている。 大阪府出身の横尾氏は91年に同志社大を卒業後、西日新聞に入社。長崎総局、社会部、北九州支局などを経て、今年3月から東京支社報道部で首相官邸キャップを務める敏腕記者だ。 地元長崎の民放記者だった市長の長女・優子さん(36)とは初任地の長崎総局時代に出会い、95年12月に結婚。現在は2児の父でもある。 「第一報が入った時、横尾氏は官邸で取材中でした。すでに長崎行きの直行便はなく、北九州まで飛行機で行きタクシーに乗り換えて長崎大病院に到着したのは午前2時でした。奇縁なのか、亡くなった伊藤市長が1期目(95年)に当選した時の西日新聞の原稿は横尾記者が取材して書いた

    Living, Loving, Thinking-山崎正和 on 道徳教育
  • http://d.hatena.ne.jp/kusamisusa/20070424/p1

  • 道徳的詐術とは何か - モジモジ君のブログ。みたいな。

    発端。「「当は、できるでしょう?」の原初的風景」@G★RDIASより。 たとえば、私がコンビニで200円のおやつを買おうとするという状況を想定する。/目の前に、募金箱がある。そこには「アフガニスタンの人達は、4人家族で200円あれば1日暮らしていける」と書かれてある。/それでも、その文字が目に入りながらも、私はおやつを買うとする。/このときに、私が「募金できない」と言うのは端的に誤っている、ということである。ただ単に私は「募金しない」だけである。/仮に、その200円がないために、アフガニスタンの家族がその1日を生き延びられず、死んだとしよう。すると、事実として「間接的ではあろうが、私は人殺しである」と言えよう。/私は、そういうことを「まずは」嘘をつつみ隠すことなく言おう、と提起している。/これは、「正論の倫理学」なら主張するであろう、「その200円を募金すべきだ」という主張とは全く違う。

    道徳的詐術とは何か - モジモジ君のブログ。みたいな。
    aozora21
    aozora21 2007/04/23
    『少なくとも僕は「「答えることが無理」な責任を一般的な責任として提示する」ことに賛同しているつもりです。』
  • 犬のしつけと社会のインフラ - レジデント初期研修用資料

    レジデント初期研修用資料 引っ越し前の旧blogです。新しいアドレスは http://medt00lz.s59.xrea.com/wp/ になります イヌには道徳心も忠誠心もない 安全か危険かの判断はできても善悪の区別はできない 犬には「人を喜ばせよう」という動機はない 犬は「忠誠心を持った友達」なんかではなく、利己的に振舞う、別の文化を持った生き物。 道徳心なんて最初から実装されていないから、「犬に道徳心を育てよう」という態度ではなくて、 「人間が好む振る舞いをインストールしよう」という立場のほうが正しいらしい。 犬飼った。 慣れてきて領発揮したのか、もう暴れまくって大変。うちにはソファーセットがなくて、 来客用にドイツのパソコン椅子があるんだけれど、すでに座面ボロボロ。 叱っても、うれしそうに尻尾を振るばかり。 ほめて伝える そもそも犬は、叱られたことと、ほめられたことを区別できない

  • uumin3の日記 - 昨日の補遺

    たとえば自分が何か一つの社会的問題に献身的に取り組んでいて、それに対して無関心な人を見ていらいらしたり、どうして無関係と思うのかと憤ったり…そういう時に人を巻き込むためにしばしば使われるのが昨日言及したような「道徳的詐術」ではないかとも思います。そういう意味では私はこの種の発話者に悪意はあまり感じません。ただおそらくご自分もその詐術に絡め取られているんじゃないかなと… これに自らが駆り立てられてしまうと(良心的な人ほど)もう疲れ果てるまでその活動に邁進しなければならなくなるのではないでしょうか。そしてさらに理屈は先鋭化し、それについていけない周囲との間に溝すらできてしまうかもしれません。そういう道に他の人を巻き込むことについては「ためらい」があってしかるべきとも考えますがどうでしょうか。 昨日の記事を書いたきっかけとなったのは、ブクマの森岡正博「姥捨山問題」あたりでした。森岡氏のも何冊か

    uumin3の日記 - 昨日の補遺
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    aozora21 2007/04/11
    微妙な差異をショートカットして一括りにしてしまうのは何故なのか、私もとても気になります。
  • 正気と狂気の道徳論 - Backlash to 1984

    教育再生会議から出てくる話はつまらないが、それを扱った話にはおもしろいものが多い。このたび、二つのエントリを見ながら、ぼんやり思ったことを書いてみたい。 http://d.hatena.ne.jp/Mr_Rancelot/20070330/p1 僕は教育問題しか語らない政治家を信用しない。教育問題は、往々にしてイデオロギー論争になりやすく、しかも答えは出ない。 信用するしないは個人の信条だからひとまずさておき、近代国民国家の学校教育というものは国政と不可分のものだから、教育畑専門の代議士が議会内に存在することは当然だし必要なのではないだろうか…と、歴史的経緯を思い浮かべつつ私も考えてみた。 もちろん教育問題は重要ではあるが、それはシステムの問題である。費用対効果の問題であり、統治の問題である。心の問題ではない。 私もそう思う。もっとも、(小選挙区など)狭い地域の代表として選出される代議士の

    正気と狂気の道徳論 - Backlash to 1984
    aozora21
    aozora21 2007/03/31
    『狂気と言って過言ではない規範のありようも存在するが(全体主義体制下の規範など)、時代や地域の偏差を越えて道徳と呼べるほどのものは、長い年月の間に濾過された、多くの人々の正気の累積にほかならない。』
  • 2007-03-30

    毎日新聞の「教育再生会議:「道徳」を正式教科に 第1分科会で一致」という記事を読みました。 政府の教育再生会議の第1分科会(学校教育)が29日、首相官邸で開かれ、道徳教育を小中高校を通じた「正式な教科」と位置づけることで意見が一致した。道徳教育は現在、絶対評価(小学3年以上3段階、中高5段階)の対象外だが、将来は対象に加える方向で検討し、5月に出す第2次報告に盛り込むことでおおむね合意した。 … 道徳教育は、指導要領で「自分自身」や「他の人とのかかわり」など指導上の4視点を示し、授業では「心のノート」などの副読が使われている。教科になれば教科書検定を通過した教科書の使用が義務付けられる。 これに対して、「道徳で点をつけるのか」といった趣旨のいくつかの反発を見聞きしました。そのお気持ちもわからないではありませんが、一番の問題は評価がどうあるかといったところにはなく、道徳教育をいかに改善して

    2007-03-30
    aozora21
    aozora21 2007/03/30
    『多様な価値観重視という方向の先が教育の強制性への批判となるだけならばそれにただ共感することはできません。確かに問題はあるのですし、道徳や公民教育でそれを何とかしようとすることに可能性もあろう』
  • asahi.com: 道徳、「教科」に格上げ案 教育再生会議分科会が提言へ - 教育

    aozora21
    aozora21 2007/03/30
    差別云々関連で道徳は時代の変遷と共に評価が変わるものだとつくづく。普遍的なことより柔軟さを学んだ方が生き易いかもなあ。/それにしても格上げってなんだ。
  • 子どもの素朴な疑問からたどり着くところ - kmizusawaの日記

    ■子どもの素朴な疑問からたどり着くところ http://d.hatena.ne.jp/aozora21/20061129/1164765552 ルールや道徳に反したこと、「間違った」ことをすることイコールその人の人格すべてがダメだってことじゃない。ルールに違反することで生じるかもしれないリスクを知ることは大切だし、守らないととんでもないことになるルールもあるけど(ひとに向かってはさみを投げてはいけません、とか)、生まれてから死ぬまで一度もいかなるルールも破ったことはありませんなどという人はおそらくいないのだし、ルールを守っていない他人について「どうしてそうするのだろう」という想像力を持てることは大切なことだと思う。ルール違反を単純に「いい悪い」とか「不公平」とかで捉えるのではなく、リスクの面から考えるってのはいいなと思った。 つか大人もさー、子どもが見てる前で堂々と信号無視したり、道にゴミ

    aozora21
    aozora21 2006/12/01
    『私には子どもがいないが、人様の文章を読むことで、少しは体験していない世界のことを覗き見て、自分の実生活上の言動の参考にできるのはありがたいことだと思っている。』ありがたいことばです。