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鈴木大介『家のない少女たち』(2008年)を読んだ。 本書は、児童買春が法で禁じられている日本において、その違法行為をすることで生き延びている者たちの実態を描いたルポルタージュである。 今回は、その具体例に触れた本文に対する感想は書かない。 ここでは、本書のあとがきに当たる個所で、著者が雑誌掲載記事では書けなかった、児童福祉に対する「政策」(と思い)について書いているので、簡単に紹介する。 児童自立支援施設の場合、児童養護施設から送られてくる子供が半数以上である。 (児童養護施設において、触法行為がかさむと児童自立支援施設へ送致されるしくみになっている。) その多くが、ADHD、LD、場合によってはアスペルガー、軽い知的障害とみられる場合が少なくない(249頁)。 朝起きると歯磨き粉のチューブ1本食べてしまったり、鉛筆1本を食べて死のうとする者もあるという。 児童福祉の課題は、常に他の問題
大日方純夫『警察の社会史』を読んだ。 以下、気になったところだけ。 実際には娼妓の自由廃業の前には、依然としてたかい塀がたちふさがっていた。 (略) 遊郭主と警察が結託して、廃業を願う娼妓がいると遊郭主をよびだして「示談」にさせたり、警察官が娼妓を「説諭」して廃業を思いとどまらせるなどということが多かったのである(吉見周子「売娼の実態と廃娼運動」) (33、34頁) 日本における「自由廃業」というものはこういうものであった。 特攻などにおける「自由意志」というのも、こうした文脈で考えた方がよい。 少なくとも戦前、今もそうなのかもしれないが、「自由」に自由が足りない。 日清戦争後の産業革命による紡績業の急成長は、労働力の不足をまねき、専業の紹介人や会社に属する募集人が、詐欺まがい、誘拐まがいの方法で女工を遠隔地から募集してきたという(中村政則『労働者と農民』) (65頁) 日清戦争あたりか
小谷野敦『私小説のすすめ』を読んだ。 あの猫猫先生が書いた、と理解していれば、実に面白く読める。 小説に興味のある人は、読んで損なし。 知識は間違いなく身に付くし、著者の主張から学ぶべきところは多い。 「文学とか文学史からみればかなり画期的で重要な指摘とも思われるものが、下世話な話題と並べて、(印象としては)ポンッと書かれている、という事もできる。そういうふうに長所と短所(というかもったいないところ)を持っている本である。」という、同著者『反=文芸評論』に対するAmazonの評が、そのまま当てはまる。 (面白いネタを書いてくれているので、著者の主張に偏見やこじつけっぽいのが混じっているにも関わらず、それでも読む価値が十分ある、などと書いてはいけない。) ただし、あの猫猫先生が書いている。(大事なことなので、二回書きました) 以下、特に面白かったところだけ。 プロを目指す人というより、ともか
福永文夫『大平正芳』を読んだ。 大平について、以前、阿片の件でブコメをしたので、久々に本書を読んだ。 amazonで評者さんの一人が引用しているように、「大平は極端を嫌い、矛盾する事象に楕円のバランスをとり、粘り強い対話を重視した。また政府の役割を限定していく、小さな政府の先鞭をつけた政治家」だった。 バランサー型政治家であり、小さな政府を志向した人だった。 某小泉氏や、現総理とはえらい違いである。 小さな政府。 では、どんな「民」(民間、市民)を彼は考えたのか。 以下、面白いと思ったところだけ取り上げる。 (なお、同じ著者だと、『占領下中道政権の形成と崩壊 GHQ民政局と日本社会党』も重要である。) 大平は卒論・「社会職分と同業組合」で、トマス・アクィナスの政治思想の根幹である「社会全体の共通の目標」を取り上げた(31頁)。 その論文において、この目標を実現するためには、社会の一構成員が
小沢郁郎『つらい真実 虚構の特攻隊神話』を再読した。 これで何度目か。 すでに他のブログさんで取り上げられている( これとか、これ。あとはこれも )が、「特攻」を知る際、読んでおきたい本の一つだ。 とりあえず、書いておきたいことだけ。 大西瀧治郎が発案したとされる海軍の特攻作戦だが、実際は、中沢佑作戦部長は、神雷部隊の編成に同意していた。 (この部隊は、特攻兵器「桜花」の専門部隊である。) そして、大西の特攻隊編成以前に、軍令部レベルで、体当たり戦術が海軍戦術として公式に採用されていた。 大西が「発案」というのは、正しくなかったのである(116頁)。 (もう少し詳しい話は、こちらのブログさんの記事をご参照あれ。) 戦前、海軍省は、天皇のために特攻隊員は献身して死んだ、というふうに書いた。 だが戦後になると、天皇のためとは言われなくなり、家族や同胞を含む民族のために死んだ、と言われるようにな
梶谷懐『「壁と卵」の現代中国論』を読んだ。 2011年に出た良書である。 久々に読んだが、やはり面白かった。 3年前の本だけど、古びていない。 (あまり関係のない話だが、例の「壁と卵」のスピーチの問題点は、「卵が正しくないとしても、私は卵サイドに立ちます」と述べ、「焼かれ、銃撃を受ける非武装の市民たち」を支持する者が、果たして、抑圧されるがゆえに武器を手にとった「卵」に対してどう向き合うのか、また、もしその返答が例の小説だとするなら、あの小説はどう見てもその回答として不十分としか言えない、という点と、そして、あのスピーチは「壁」が「爆弾・戦車・ミサイル・白リン弾」と「システム」と二種類出現していて、「システム」変えようぜと言うのは”そーですね!”(アルタ風)という返答しかないのだが、一方の、「爆弾・戦車・ミサイル・白リン弾」を使用する側の「卵」の加害への責任はどうするんだよ、という二つの点
丸山里美『女性ホームレスとして生きる』を読んだ。 珍しい女性ホームレスを扱った本書だが、その実態を論ずるだけではなく、女性ホームレスの存在を通して所謂「主体性」への批判的吟味にまで達している。 そもそもなぜ、日本は女性ホームレスが「少ない」のか。 例えば、他の先進国の場合、DVなどを理由にシェルターに逃げ込んだ人も、統計的にホームレスに当てはまり、そのため女性ホームレスにカテゴライズされる人が多いのに対して、日本の場合は統計に入らないため、数が少なく算出される。 また、日本の雇用制度の帰結として、男性の場合、労働者として福祉の網から外されやすいのに対して、福祉制度の保護(生活保護)を比較的受けやすい女性は、その分ホームレスになりにくいかった。 こうした理由から、女性がホームレスとして(統計的にも実質的にも)表れにくい、という日本の事情が、本書では説明されている。 (日本の雇用形態の場合、女
野矢茂樹編『子どもの難問』を読んだ。 幾人もの日本を代表する哲学者たちが、「子どもの難問」に、こたえていく内容。 一つの問いあたり、二人の哲学者が担当しており、その対比も見どころ。 じつは、最大の読みどころは、巻末に載っている哲学者たちの出身地と履歴だったりする(マテヤコラ。 (あながちウソではない。みんな、当然だが、高学歴である。)。 本書の哲学者の回答の中から、特に興味深かったところだけ。 誰がその回答をしたのかについては、実際に本書をあたられたい。 「生きている」のは、「生きている」こと自体を深く経験するため。これが、あえて言えば、「なぜ」に対する私の答えです。/「あえて言えば」と言ったのは、「生きている」ことの自己目的性を強く意識しすぎると、それはそれで、深く経験することを阻害するようになると思うからです。ちょうど、眠ろう眠ろうと意識しすぎると眠れなくなってしまうように。 (78頁
田中貴子『検定絶対不合格教科書古文』を読む。 中身は実にまっとうな本。 信じられないかもしれないが、実に、まともだw 清少納言は、高慢ちきな女として一般に思われているけど、実際の所、彼女が『枕草子』に書きたかったことって、中宮を中心とするサロン文化であって、自分の自慢話でも何でもなかったんだよ、と著者は言う(65頁)。 詳細は本書を当たられたいが、確かにその通りだろう。 また、著者は、『枕草子』には随筆以外に短い物語も入ってるんだから、内容的には、「清少納言全一冊!」見たいな感じじゃないの、といっている。 『笑い飯全一冊』の隣に、『清少納言全一冊』がある光景を想像したw 何で古典なんぞ研究すんのか。 めんどくさいのに。 研究とはテクストに疑問を持つことから始まる、と著者は言う。 一見アタリマエに思えることに一瞬立ち止まってみる(104頁)。 それが、懐疑し、思考する力を培う(著者は、「脳力
枡野浩一『かんたん短歌の作り方』を読む。 一見不真面目な著者だが、実は歌への姿勢は真摯であり、真面目。 句読点をつけると、どんな退屈な言葉だって一見意味ありげに見えちゃうんです。それは危険なワナ。記号なんか全部捨てても通用するような強い言葉を構築しましょう。 (79頁) 小細工なしの真っ向勝負を本道とする、実に正統派な姿勢。 いっそ作家の皆さんはこの姿勢を見習って句読点なし改行なしの文章を一度でいいから綴ってみてはいかがでしょうか実際近いものとしては大谷崎『春琴抄』があるのですし出来ないことはないのだと思いますよブログ主はもちろんそんな無謀なことはしないですけどね 先立ったわが子の遺書を売る親よ尾崎かまちは自殺じゃないか (109頁) 著者の歌。 言うまでもなくここでいう「尾崎かまち」は架空の人物だが、なぜか問題が発生したらしい。 さて、なんでなんでしょうね? 文章は、お互いに意見の合う人
宮地尚子『トラウマ』(岩波新書)を読んだ。 トラウマとは何か、そしてトラウマに関する諸々を学べる良書。 初心者にもとっつきやすい。 興味を持ったところだけ書いていく。 裁判などで「事件の次の日も平気で仕事に行ったのは不自然」ということで犯罪報告の事実が否認されることがありますが、被害者が事件の次の日に仕事に行くというのは珍しいことではありません。(略)あまりに衝撃が強く、感情が麻痺してしまうために、事件後の被害者や遺族が「冷静」に見えるということは、少なくありません。 (12頁) トラウマとは、人間が抱えるにはあまりにも大きすぎる。 それは、"平時"に生きる人間には、推し量りづらいものだ。 上記のくだりは、まさにそれを表している。 犯罪被害者に対して上記の点を気を付けたい。 トラウマに「慣れる」ということはなく、むしろ次のストレスへの耐性を弱め、他の人にはトラウマにならない些細なことがトラ
アラン・ド・ボトン『旅する哲学 大人のための旅行術』を読んだ。 以前、同じ著者による『プルーストによる人生改善法』についても取り上げたことがあるが、やはりこの本も面白い。 特に面白いと思ったところだけ取り上げる。 ディオゲネスは「ギリシア人とギリシア人以外という区別の立て方を軽蔑し、『きみの国はどこか』と聞かれると『わたしは世界市民(コスモポリタン)だ』と答えたと伝えられる。」(129頁) よく知られているエピソードだが、引用した。 何々人という聞かれ方、決め付けられ方、断定のされ方、そういったものから逃れるためにディオゲネスはこう答えた。 彼にとって、世界市民とは、「ギリシア人」として区別されることへの抵抗であり、何かに所属することへの抗いだった。 「犬のディオゲネス」とまで言われた人物である。 もし、本当に世界政府が出来たら、その時には、彼は自らを「宇宙市民」と称するのかもしれない。
大江志乃夫『日本の参謀本部』を再読した。 もう古典になった気もするが、まだまだ読むべきところは多い。 ちなみに、Apemanさんも感想を書いている。 面白かったところだけ。 山県が(略)その地位を保持することができたのは、情報政治に負うところが大きい。山県は近代日本きっての情報政治家であった。 (28頁) 山県が情報政治家として成功した原因のひとつは、(略)そのダーティーな職責を果たした人物を決して使い捨てにはしなかったことにあるといえよう。森鴎外もその一人であったといえるかもしれない。 (30、31頁) 諜報、情報の人間として、山県有朋が出世したのはよく知られている。 その秘訣が、後者の引用部である。 少なくとも山県は、これのおかげで、暗殺や失脚の恐怖におびえることなく済んだ側面がある。 使った人間に恨まれなければ、例え他の人間に恨まれたとしても、そうそう揺るがない、ということでもある。
渡辺浩『日本政治思想史』を読んだ。 かなり面白い。 過去に著者が行ってきた講義が原型となっているためか、初心者にもわかりやすく(こっちは初心者ではないが)、江戸の政治思想(政治だけではないけど)が、よく理解できる良書。 江戸期の「思想」が現代人にとって奇異なものではなく、ちゃんと相応に納得できる部分があることがわかる。 以下、興味のあるところだけ。 それぞれに自分らしく生きることが、それ自体として良いことだなどとは、儒学者は考えない。(略) ヒトラーがヒトラーらしく生きたことの結果を知らない者がいるだろか (16頁) これは、儒学の説明において述べられた一節。 自分らしく個性を生かそう、という場合、たいてい善いところしか想起されないが、個性は、必ずしも善いところばかりではない。 とうぜん悪いところは矯正しようとするだろう。 とすれば少なくとも、何らかの「善」を想定せざるを得ないのは確かだ。
広田照幸『教育論議の作法』を読んだ。 面白いし、これまでの広田先生の著作のおさらいにもなる。 特に興味深かったところだけ、以下に取り上げる。 1947年に教育基本法案が国会で審議されていた時、貴族院議員の澤田牛麿が質問している(38頁)。 この法案はには道徳が書かれているが、「法案ぢゃなくて、説法ではないか」と批判したのである。 法律と道徳の区分はこの時点で、すでに理解されていたのである。 ああ、時代は後退している。 吉川徹『学歴分断社会』を参照しながら、著者はいう。 誰もが同じ学歴を取得するのは無理なのだから、労働市場に目を向け、安定した仕事が高卒に割り当てられるような制度的調整が必要ではないか、と(59頁)。 (むろん、大学の学費は、親の収入ではなく、公費によって賄うべきだろうとは思う。) 学歴格差を埋めるのはその本質において困難なのだから、そのあとの雇用段階での格差を縮めようというの
■「俺たちの女」を盗られたネオナチ■ 以前聞き取りをした東のネオナチの青年たちは、反外国人の理由として「仕事を奪う」の他に「俺たちの女を盗る」ことをあげた。 (176頁) この根拠のない「所有」意識こそ、ナショナリズムの中にあるジェンダーバイアスを考える鍵になると思います。言いたい放題のネオナチですが、こういう思考は、他国の男性全般が、もち得るものかも知れません。 なお著者は、『黒い性・白い性』と、『フェミニズムの宇宙』を注として挙げています。 ■ユーゴ難民に対する、西ドイツの老婦人による不当な批判■ 「彼らはドイツの豊かさに目が眩んで、戦争が終わってもこの国に残りたがるのね。」 (208頁) これは、ドイツに流入するユーゴ難民についての西ドイツの老婦人の発言です。 自分は故郷のベルリンが瓦礫の山になっても疎開先から帰ってきたのに、と彼女は述べます。著者は次のように反論します。彼女のときは
阿部治平『もうひとつのチベット現代史 プンツォク=ワンギェルの夢と革命の生涯』を読む。 知る人ぞ知る、プンワンの半生を綴った好著である。 彼が何者かについては、Wikipediaの記事を見てくれれば分かる。 (ただ、「帰国後、中国共産党の下部機関に組み込まれるが、文化大革命では民族主義者として弾圧を受け、18年間投獄される」という記述があるのだが、プンワン投獄は文革前のはずである。) 梶谷先生による書評も、読まれるべき。 未完だが、こちらの書評もよい。 以下、気になった所だけ。 占領されるまでのチベットの当時の政治について。 イギリスはシムラ会議で中国のチベットに対する宗主権を承認し、チベットには自治権以上の権力を認めなかった。 にもかかわらず、チベット政府はイギリスにも中国にも、積極的に独立を認めさせる外交らしい外交も、独立を確実にする内政の改革もしなかった。 ラマを中心とするチベット政
東志津『「中国残留婦人」を知っていますか』を読む。 ジュニア新書と思って侮るなかれ。 良書である。 ほかにも読まれるべき個所をいくつも含んでいるのだが、ここでは、数か所のみ引用とコメントをする。 (要するに実際に本を手に取ってくれということだ。) 「開拓移民が渡った先で与えられた土地の多くは、もともとは中国人のものでした。彼らが苦労して開墾した農地に日本人が入植したのです。土地や家屋を奪われた中国人は、その後、小作や苦力(日雇い労働者)として日本人のもとで働くことになりました」 (6頁) これは著者による解説である。 ここでいう中国人とは、満州人を含む中国人を指している。 まず基本的なことだが、満州国とは、このような土地の収奪によって成立している。 結婚を前提に募集をおこなえば、応募者が見込めないと考えた為政者たちは、本当の目的を伏せて人を集めていました。そうした事業に応じて満州に送られた
濱口桂一郎『若者と労働』を読んだ。 著者の本(ただし全部新書!)を扱うのは、三冊目となる。 本書は、 日本のメンバーシップ型雇用の歴史的成り立ちと、現在抱えている問題点とを、 「入社」というまさにメンバーシップ型雇用社会に特徴的な事柄を糸口にして平易に解説し、 (この平易さは、著者も新書三冊目となって説明がこなれてきたのと、担当編集者の力量とによるものだろう) 一方、日本以外の社会で通常行われているジョブ型雇用も対比としてその実態を詳しく説明し、 最後に、現在生じている日本の雇用の問題点に対する「処方箋」として、 ジョブ型正社員という正規でも非正規でもない第三の雇用形態を提唱する、 という内容である (たぶん)。 ラクレには、『日本人はどのように仕事をしてきたか』という中身の詰まった本もあるが、これについては以前、感想めいたものを書いた。 気になった所だけ(長い)。 第一次世界大戦後の大規
フリーク・ヴァーミューレン『ヤバイ経営学』を読んだ。 実に面白い本。 気になった所だけ書いていく。 会社にいる人間の行動を調べてみたら、けっこう彼らは、会社のデータ(数字)を無視して、代わりに経験や質的な評価、直感によって判断している(32頁)。 ファスト&スローの二つの思考のうち、前者を採用しているわけだ。 だけど、そうする方が結果はマシなのかもしれない。 というのは、人は数字(会社の売上など)については結構間違いだらけに覚えていて、こうしたものを元に意思決定してしまうと、会社全体に損失を与えてしまうかもしれないからだ。 ファスト思考は結構うまくやってくれる。 意外と知られていないこと。 例えば、買収(91,92頁)。 50億ドル以上の案件121件を調査した結果、59%のケースで、市場全体の影響を排除したリターンは買収とともに低下している。 12ヶ月たったあとには、71パーセントの案件で
保阪正康『「特攻」と日本人』と、大貫健一郎, 渡辺考『特攻隊振武寮』を読んだ。 気になった所だけ。 まずは『「特攻」と日本人』。 著者の見解について、幾つか気になる点はあるのだが、それでも賛同できる部分は多かった。 昭和十九年の十月、台湾沖航空戦でのこと。 第二十六航空司令官の有馬正文は、艦隊に特攻して戦死する。 著者曰く、「日本で初めての特攻作戦を行ったのは、実は四十九歳の有馬だったのである。」(171、2頁) しかし、有馬の体当たり攻撃は、一般に広まることはなかった。 有馬は軍事指導層であり、もしこの考え方が一般的だったら、軍事指導者たちが率先して体当たり攻撃をしなければならなかったからである、と著者は書いている。 指導者たちは、特攻しない。 陸軍航空本部は、昭和20年5月末に知覧基地で「特攻隊員の心理調査」を密かに実施している(56頁)。 戦争の最終段階になっても「ますます決心をなす
王前『中国が読んだ現代思想』を読む。 中国語では、ハイデッガーのDaseinの訳語は、「親在」らしい(熊偉による訳語)。 「親」は、身をもって、自ら、親愛などの意味で使われるため、ハイデッガーの言う、「情態性」の意味と一致していると言う(52頁)。 「情態性」っていうのは、"気分"のこと。 ハイデッガーは、人間にとって受動的にか対応できない事実として、"気分"というものは立ち現れている、としている。 Wikipediaが説明するところの、「自発的に惹き起こされるものでも外部の刺激に自動的に反応するのでもなく、世界内存在という在り方として世界内存在自身から立ち上がってくる」ものである。 それは、気付けば"既に"、立ち現れているものである。 それは他人が与えるのでも、自分自身に与えようとして与えられるものでもない。受動的なもの。 この、「既にあるもの」、「受動的にしか対応できないこと」、という
ミラノヴィッチ『不平等について』を読了。 あのトマス・ポッゲが推薦していたので、読んだ。 曰く、「楽しみ満載のこの本で、経済的不平等という深刻な主題について学んでみよう!」 特に面白かったところだけ。 ソ連などの社会主義国家について(61、62頁)。 ノーメンクラトゥーラ(社会主義国における支配階級)の特権は、仕事に付随しており、党綱領に抵触する反抗的な態度は、直ちに降格を意味した。 そして、降格すると、全ての特権を失う。 実は、最高幹部の賃金でさえ、一般労働者やサラリーマンと比べてもそれほど高くなかったのである。 (非金銭的な、別荘や食料配給優先権などの特権などはあった。) そのため、貯蓄して頼りにできるような、私的財産を築くことはできなかった。 すると、どうなるか。 資産の蓄えもできず、所得と特権が仕事に結びついていたのなら、波風を立てたくない気持ちは非常に強くなる。 起こるのは、事な
海老原嗣生・荻野進介『名著で読み解く 日本人はどのように仕事をしてきたか』を読む。 戦後に出版された(日本の)雇用系「名著」の中身と、その本の歴史的な存在意義を解説している。 だが、それだけではなくて、その「名著」の著者たちの「コメント」(反論?)も掲載している。 とても勉強になるだけでなく、フェアな書物でもある、といっていいだろう。 著者側と、読者側のスタンスや考え方の違いを踏まえて読むのが、この本を楽しむコツである。 この著者の一人については既に、ここの記事で書いたことがある。 興味のある所だけ。 戦前では旧制大学を卒業して職員として入社した新入社員の初任給は、50代の熟練工員の三倍以上だった(21頁)。 それだけではない。 職員は月給制に対して、工員は日給制。 各々で、使えるトイレや売店も違い、売店で売られている品目も差がついていた。 片や内地米、片や植民地の外地米である。 まさに身
増田弘『石橋湛山』を再び読む。 リーダブルだし、面白い。 気になった所だけ。 湛山は新兵として苦労を重ねている(17頁)。 入営時に60kgほどあった体重は48kg台まで減り、在営中ついに回復しなかった。 湛山は軍隊に在籍した一年間に、戦争への嫌悪の情を深くすることとなった。 実弾演習にも恐怖感を覚えた。 彼の平和への思想は、そうした実体験にも基づいている。 当時作られようとしていた明治神宮に対して、かれは何といったのか(27、28頁)。 神社ぐらいで、「先帝陛下」を記念できると思っているのか。 ノーベル賞にならって"明治賞金"を作れ。 こんな風に提言しているのである(「愚かなるかな神宮建設の議」が出典)。 いかにもプラグマティックな石橋湛山、と言えるだろう。 尼港事件の報復措置として、日本軍は、北樺太を占領した(46頁)。 米国は日本に猜疑心を抱き、日米関係は悪化した。 これに対して、湛
赤澤史朗『靖国神社』を再読する。 (たぶん)知られざる良書である。 いつもどおり、興味のあるところだけ取り上げていく。 「靖国神社の祭礼には、競馬やサーカスなどの娯楽が付きまとい、多くの観衆が集まった」というふうに、庶民にとって靖国神社が親しい存在だったことを説明する研究がある(20頁)。 だが、戦前の靖国神社は、神社が強力な軍の管理下に置かれていたし、また例大祭などの祭典に正式に参列できるのは、軍や国家の代表者だけであって、庶民はもとより、遺族すらも参列できなかった。 戦前期には、祭礼の合祀に際して、遺族は合祀祭への参加を許されず、かろうじて招魂斎庭から、本殿に向かう御羽車を拝んで見送ること、祭典終了後の昇殿参拝が認められただけであった。 戦前における靖国神社の遺族に対する位置づけは、実はこのようなものである。 遺族会として勢力が強くなるのは、戦後のことである。 ところで、上記の「庶民に
■貨幣がもたらす、「決断の留保」という甘い毒■ その多機能性こそが「貨幣」の魅力なのであるが、その機能の使い方を一歩間違えると、社会に災いをもたらす「疫病」のような存在にもなりかねない (67頁) 優柔不断という甘美な果実を与えてくれるからこそ、貨幣を保有するのである。しかし、そんな雲をつかむような形のない誘惑こそが、資本主義を不況という地獄に導く悪魔のささやきにほかならない (135頁) 決断を留保させてくれる、先の方まで延ばしてくれる、素敵なもの、それが貨幣。 人は消費します。しかし、確率さえ計算できないような消費をせざるを得ないのです。ああ、アレを買って置けばよかった、こんなもの、買わなきゃよかった。ジュース一本から、一軒家購入まで、こんなものはたくさんあります。人は、完全な情報を持つことは出来ません。情報不足ゆえに人はためらうのです。「人々は確率のわからない環境を、わかっている環境
ハジュン・チャン『世界経済を破綻させる23の嘘』を再読した。 やはり、面白い。 特におもしろいと思った所だけ、書いていく。 アダム・スミスが、株主が有限責任しか負わないということで株式会社を批判したのに対して、マルクスは株式会社を擁護した(36頁)。 というのも、マルクスは、株式会社を社会主義への「移行点」として捉え、株式会社が所有権と経営を分離するので、それによって経営にタッチしない資本家たちを排除できる、と考えたのである。 まあ、これは岩井克人先生らの議論を知っている者には、周知のことだろう。 著者いわく、低レベルのインフレが経済に悪いという証拠はまったくない(89頁)。 例えば、シカゴ大学、IMFが行った研究でも、8~10パーセント未満のインフレは経済成長率に、全く影響を及ぼさないと結論した。 このような低レベルインフレ擁護論は、著者の師匠(?)・スティグリッツ先生も述べていたことで
品田悦一『斎藤茂吉』を読む。 著者は、『万葉集の発明』を書いた人。 前著もそうだったけど、面白い。 茂吉だけでなく、それ以外の主張も面白い。 気になった所だけ。 茂吉の訛りは酷かった(32頁)。 彼の晩年の歌の朗吟を聞けば分かるが、結構訛っている。 同じく同郷の友人たちの訛りも酷かった。 (「酷かった」という表現は、山の手中心主義な気もするけど。) 彼らは、結果的に文筆に自己表現の道を見出す。 そして、茂吉は「書く人」となった。 (ここら辺の問題意識については、小林敏明『廣松渉』における、廣松の文体と「周縁性」の問題と共に考えられるべきだと思うが、まあ、また今度考えよう。) 茂吉は、朗吟より黙吟の方が効果があると考えた(44頁)。 「肉声の干渉が回避されるという意味ではむしろいっそう純粋に感得できる」というわけだ。 肉声は時に、肉声以外の要素を、殺してしまう。 (黙吟の意義(朗吟への批判)
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