・ 櫻井よしこの憲法改正論は、ほぼパクリである。憲法改正論のパッチワーク。自分の頭で考えた憲法改正論ではない。最近の保守論壇における「憲法改正論論議」の思想的堕落は、櫻井よしこが象徴しているのではないか? 江藤淳が「ごっこの世界が終ったとき」(『一九四六年憲法ーその拘束』所収)で言った「ごっこ」そのものだ。つまり、「憲法改正論ごっこ」(笑)。 江藤淳の『一九四六年憲法ーその拘束』が、文藝春秋の文庫(文春学芸ライブラリー)で復刊された現在、憲法改正論を、あらためて原点に立ち戻って、そこから、再構築していくべきだろう 。『一九四六年憲法ーその拘束』を読むと、憲法制定過程の研究と分析を、日本側の資料や文献よりも、むしろアメリカ側の資料や文献を駆使して、江藤淳は、行っていることが分かる。 たとえば、マッカーサーの「回想」や「回想録」の類いが、周辺資料や資料分析の結果、歴史的文献として、あまり信用で
![「櫻井よしこ研究」とは何か? 果たして、「立憲主義」もよく分かっていない櫻井よしこに、「憲法改正論」を展開し、リードしていくだけの思想的能力があるのか?ただ、自主憲法制定へ向けての「憲法改正論」を、劣化させるだけではないのか?憲法改正問題を、「中韓バッシング」や「ヘイトスピーチ」的な憲法改正論しかできない櫻井よしこに任せておいていいのか?ネット右翼レベルの憲法改論議しかできない「人寄せパンダ」に任せておいていいのか?ますます、真の憲法改正が、遠のくだけではないのか? - 文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/eb6d46b7c0e6ecc3a6aa3e17f14da27ebd351c03/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fcdn-ak.d.st-hatena.com%2Fdiary%2Fdokuhebiniki%2F2015-05-09.jpg)