SHIKOKU NEWS 内に掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。 すべての内容は日本の著作権法並びに国際条約により保護されています。 Copyright (C) 1997- THE SHIKOKU SHIMBUN. All Rights Reserved.
【パリ=浅田信幸】米英など「有志連合」が2003年に開始したイラク戦争中の英軍による人権侵害について捜査するよう、欧州の人権団体と弁護士グループが国際刑事裁判所(ICC)に告発しました。英BBC放送をはじめ英国のメディアが報じました。 英バーミンガムに本部を置く公益弁護士会(PIL)とベルリンを本拠とする欧州立憲人権センター(ECCHR)が共同で告発しました。今月10日の告発に当たって発表した報道向け発表は「英軍のイラク駐留中の捕虜に対する系統的な虐待は戦争犯罪に当たる」と主張しています。 虐待・人権侵害の対象になったイラク人は400人以上にのぼるとし、「広く行われた虐待を知っていたか、知っていたはずであり、それに目をつぶった」として、フーン国防相(当時)ら英国防省の高官に対する捜査を求めています。 これに対しハーグ英外相は12日、「これらの容疑はいま調査中か、すでにさまざまな方法で決着済
日本軍慰安婦問題について書いているエントリに見境なく、“韓国はベトナムに謝罪してない”とかいったコメントをつける嫌韓バカの皆さんはきっと、この意見に賛同するはずです。 [特派員コラム] 我らが内なるヤスクニ/キル・ユンヒョン (略) しかし神社からA級戦犯が分祀されさえすれば、すべての問題は解決されるのだろうか。 東北アジアの平和と安定に特別な利害関係を持たない異邦人にとってはヤスクニはどうなろうが関係のない問題であろうか。 ここまで考えた時、私たちがヤスクニ問題を人類皆が理解できる普遍的な言語で説明することに失敗しているのではないかという気がした。 哲学者の高橋哲哉 東京大教授は2005年に出した<靖国問題>という本で、神社の本質を‘感情の錬金術’という言葉で表現したことがある。 息子が戦争に出て行き亡くなることになれば、母親は耐え難い悲しみを感じることになる。 しかし天皇を通じて靖国で
秘密保護法の強行に続き、靖国神社の公式参拝…。日本を「アメリカと肩を並べて戦争する国」に導こうとする安倍内閣のもと、今年も戦争と平和の問題をとりあげていきます。 (写真)『記録―少女たちの勤労動員』を見る坂口さん(左)と中村さん (写真『記録―少女たちの勤労動員 女子学徒・挺身隊勤労動員の実態』(西田書店、3800円+税) 太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)。学校の授業は中止になり、14、15歳の少女たちも軍需工場などで働きました。どんな場所で何をさせられたのか―。体験者たちが『〔改訂版〕記録―少女たちの勤労動員 女子学徒・挺身隊勤労動員の実態』を出版しました。96年に出したものに新資料を加えた改訂版です。 編集したのは91年12月8日に結成した「戦時下勤労動員少女の会」です。代表の坂口郁(いく)さん(83)=東京都在住=は言います。 「私たちは国の方針で動員されましたが、公的な記録
今年の10月でした。来日中のケリー米国務長官とヘーゲル米国防長官がそろって千鳥ケ淵の戦没者墓苑を訪ねました。神妙な様子の2人は長身を折るように、献花台に花束を手向けました▼先の大戦後、靖国神社から500メートルほど離れた場所につくられた国の施設。A級戦犯をふくむ軍人らを合祀(ごうし)する靖国と異なり、海外戦没者の身元不明や引き取り手のなかった人たちの遺骨を収めます▼米閣僚の千鳥ケ淵献花は、靖国参拝に固執する安倍首相に衝撃をあたえました。日本の侵略戦争を美化する靖国への参拝は、中国や韓国との関係を悪化させ、米国のアジア戦略にも影響を及ぼす。そのために、けん制したのでは、とみられています▼波紋のひろがりは、靖国参拝がいかに国際平和を乱すかを示したものでした。それを押し切って、仕事納めとばかりに靖国に足を運んだ安倍首相。内外の多大な犠牲者に心を寄せず、みずからの信条を押し通す傲慢(ごうまん)ぶり
230年以上も前の今頃です。英国海軍の探検家ジェームズ・クックが南太平洋上に浮かぶ美しいサンゴの島を発見。「クリスマス島」と名付けました▼長い間イギリスが支配した同島の周りには大小さまざまな島が散らばります。太平洋戦争中、日本軍と米軍が激しい戦闘を交わした諸島も少なくありません。クリスマス島も戦後、核実験場にされました。多くの島々が大国にほんろうされてきた人類の歴史です▼いままた、東シナ海の小島をめぐる日中の対立が激化しています。今後の自衛隊の増強方針を鮮明にした安倍政権。米海兵隊をモデルにした「水陸機動団」を新編するなど、離島の防衛を意識した軍事力の強化を打ち出しました▼安倍首相が得意げに口にする「国際協調主義に基づく積極的平和主義」の中身です。一方の中国も、海洋大国を前面に押し出し、海軍を増強するなど、力による対抗姿勢をあらわにしています▼ひとつの島や領土をめぐって国と国が争い、おびた
秘密を報じれば国家の危機を招き、大勢の国民が死ぬ―。秘密保護法に関わって自民党の石破茂幹事長がこんな理屈で、「秘密」報道の抑制を説いています(別項)。“報道よりも国民の命が優先だ”といいたいのでしょうが、歴史に学ばない逆さまの議論です。(竹原東吾) ねつ造で始まったベトナム戦争 日本はかつて、政府の「秘密」が報じられないもとで、中国への侵略戦争、アメリカやイギリスをはじめ世界を相手にしたアジア・太平洋戦争を行い、日本で310万人以上、アジアで2000万人以上もの犠牲者を出しました。 真実は「秘密」 この侵略戦争を指導した「大本営」の発表は、日本軍が大敗北しても勝利したかのようなウソを垂れ流し、退却も「転進」と言いかえるなど国民から真実を覆い隠しました。その発表は太平洋戦争の45カ月間で846回に及びます。真実は「秘密」にされ、厳しい報道管制のもとでおびただしい数の犠牲者を出したのです。 真
旧日本軍が1937年12月におこした南京大虐殺から76年となる今年、各地で生存者から証言を聞く取り組みが行われました。14日に東京で、13日には名古屋で集会が開かれ、王津さん(82)が証言しました。 当時6歳だった王さんは、南京の城壁のすぐ外に住み、日本軍に家を放火されました。母とセリ畑のうねに隠れ難を逃れましたが、父は隣人と連行され帰ってきませんでした。「男も女も日本兵に見つかると連行され、暴行、強姦(ごうかん)、殺害された。思い出すと今でも強い怒りがこみ上げる」と涙をぬぐい、おえつしながら語りました。 東京集会では「関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会」の山田昭次共同代表が同事件について講演しました。朝鮮人の虐殺は当時、在日朝鮮人運動と日本人社会主義者らの間に生まれた連帯志向に警戒した官憲が主導的に行ったと説明。同時に国が関与し大掛かりなデマを流し、愛国心をあおった結果、多くの民衆が
インドネシアのユドヨノ大統領は13日、東京都内で講演し、日本、中国、米国などが互いに戦争放棄の法的義務を負う「インド・太平洋友好協力条約」の締結を呼び掛けました。対象国は東アジア首脳会議に参加する東南アジア諸国連合(ASEAN)10カ国と日米中、ロシア、インド、韓国、オーストラリア、ニュージーランドの計18カ国。 大統領は「ASEAN諸国間で東南アジア友好協力条約(TAC)が果たしたのと同じような平和に向けた変化の力を持つだろう」と強調しました。 TACは、ASEAN諸国間の戦争放棄条約として締結されましたが、域外国に開放されており、東アジア首脳会議の全参加国が加入済み。ただ条約の規定上、ASEAN域外国間では武力不行使の義務を負いません。 この不十分さを補うために、11年の東アジア首脳会議は、参加国同士が戦争放棄を誓約した「バリ宣言」を採択。ユドヨノ大統領は、バリ宣言に法的拘束力を持たせ
戦争の書類は焼却して、 戦争の証拠隠滅をしろ。 昭和20年(1945年)8月15日の終戦の前日、1945年8月14日に、 「国や自治体の機密文書の廃棄」を閣議決定した。 軍・政府は、戦争に関する一切の資料を焼却して、 戦争はなかったものにしよう、 戦争を歴史から消し去ろうとした。 占領軍GHQの調査が始まるまえに、機密文書の焼却を急いだ。 そして、軍関係、町村役場、学校、地域では、 数日をかけて機密書類を焼却、廃棄した。 軍と政府による戦争の証拠隠滅である。 犯罪者は証拠隠滅をする。 戦争の証拠隠滅が、本当にあったのだろうか? 「機密重要書類」を焼却せよ、という通達が見つかった。 長野県から各市町村長に宛てた通達、 「機密重要書類焼却の件」である。松本市文書館で。 「機密重要書類焼却の件」は、 昭和20年8月18日の発行である。 昭和20年8月15日の終戦の3日後で、 昭和20年9月2日の
愛知の伊勢湾と三河湾を隔てる形で伸びる知多半島。中心部に位置する半田市は運河のある港町として、江戸の昔から栄えました。自然も豊かで、四季折々に日本の里の風景が残ります▼秋には、矢勝(やかち)川の堤に無数に咲き乱れる彼岸花。ここは、童話作家の新美(にいみ)南吉がよく散策した場所です。今も読まれ継がれる「ごんぎつね」をはじめ、数多くの作品を生み出した地は今年、南吉生誕100周年でにぎわいました▼日本が破滅への道を突き進んだ戦前に多感な青春時代をすごした作家が、何を表現し、どう生きようとしたのか。記念行事が連なるなか、72年前に日本が太平洋戦争を始めた8日、半田市民ら有志が「南吉と平和」の集いを開きました▼学生運動の指導者と親交を結び、プロレタリア文学からも影響を受けた若き南吉は、反戦童話ともいうべき、「ひろったラッパ」を書きました。立派なラッパ手になって手柄を立てようとしていた主人公が、戦禍に
12月8日は、戦前の日本が朝鮮半島や中国への侵略に続き、マレー半島(当時はイギリス領)とハワイに侵攻、世界を相手に戦争を開始した1941年のアジア・太平洋戦争の開戦から72年です。その日を前に安倍晋三政権は国会で、新たな「戦争司令部」となる国家安全保障会議(日本版NSC)設置法と、その活動のため国民の目、耳、口をふさぐ秘密保護法の成立を強行しました。過去の侵略戦争を反省するどころか、日本を再び「戦争する国」にする策動は国民が望むはずもないもので、国際的にも通用しません。 「非戦」の決意に背く 日本が1931年、当時「満州」と呼ばれていた中国東北部で始めた侵略戦争からアジア・太平洋戦争終結まで15年にわたった戦争は、戦場になった日本とアジアを荒廃させ、310万人以上の日本国民と2000万人を超すアジア・太平洋地域の人々を犠牲にしました。日本が侵略戦争の責任を認め、「政府の行為によって再び戦争
ナチスの戦犯アイヒマン裁判で、悪とは人間とは何かを問いかけたユダヤ人哲学者ハンナ・アーレント。思考を放棄し、命令に従うことで大量虐殺を遂行してしまう。その悪の凡庸さ、陳腐さを訴えました▼「考えることで、人間は強くなる」という信念をもちつづけたハンナ。彼女はベトナム戦争に関する米国防総省の秘密文書を「あらゆる種類の偽り」と分析しました。そして、虚偽を操作し、戦争に進んでいった政府の本質をえぐりました▼72年前のきょう、日本の天皇制政府はアジア・太平洋戦争に乗り出しました。国防保安法や治安維持法で国民をしばりつけ、「自衛」のためとだまして。領土拡張の侵略戦争は、日本とアジアで多大な犠牲を生みました▼それを反省するどころか、また同じ道をたどろうというのか。新たな司令塔をつくり、国民から事実を知る権利を奪いとる秘密保護法を強行した安倍自公政権。ふたたび日本を戦争に巻き込むための準備を、数の横暴でご
12月8日は、日本軍が1941年、英領マレー半島とハワイ真珠湾への奇襲攻撃を行ってアジア太平洋戦争を開始してから72年となります。 この戦争は、中国への侵略戦争で泥沼に陥った天皇制政府と軍部が、軍事資源の確保と局面打開のために侵略の手をアジア太平洋全域に広げたものでした。そして、国民の自由を奪い、国民の目・耳・口をふさぐことと一体に進められました。 大日本帝国憲法では天皇が絶対で、国民の権利は法律で定める範囲内で認められるだけでした。その上、数々の治安立法が国民をがんじがらめにしていましました。 中でも、1925年には「国体(天皇絶対の体制)の変革」や「私有財産制度の否認」の目的をもった結社の組織、加入とその協議、扇動などを弾圧する治安維持法を制定。28年には同法の最高刑を10年から死刑に改悪しました。中国への全面侵略戦争に踏み込んだ1937年には「軍事上の秘密の保護」を目的とした軍機保護
「戦中は1000人以上の死者が出た東南海地震さえ秘密にされた」と話す前田波雄さん=6日、東京都大田区で 太平洋戦争の開戦から、きょう八日で七十二年。平和憲法を次世代に伝える活動をする「国民学校一年生の会」世話人の一人、前田波雄さん(79)=東京都大田区=は、その朝のことをはっきり覚えている。官憲を恐れ、自由な発言ができなかった苦い記憶とともに。拡大解釈の恐れがある特定秘密保護法の成立に、「言論統制の時代がまた来るのでは」と危機感を強める。 (樋口薫)
安倍内閣は25日、日本軍による「慰安婦」の強制連行を示す資料=「バタビア臨時軍法会議の記録」について、強制連行を示す証拠はないとする答弁書を閣議決定しました。日本共産党の赤嶺政賢衆院議員の質問主意書への答弁。 安倍内閣は6月18日、政府が発見した資料の中に「バタビア軍法会議記録」が含まれていることを初めて認めました(赤嶺氏の質問主意書への答弁書)。 同記録は、日本軍がインドネシアで抑留所に収容中のオランダ人女性らを「慰安所に連行し、宿泊させ、脅すなどして売春を強要するなどした」と明記しています。 6月18日の答弁書は一方で、同記録に関しても強制性を否定。赤嶺氏は「国民の常識では理解できない」として、記録にある日本軍人らによる強制連行は安倍内閣の言う「いわゆる強制連行」に当たらないという認識かと再度質問主意書を提出しました。しかし、政府は再度、強制性はないとする答弁書を出しました。 赤嶺氏は
70年前の10月21日、明治神宮外苑競技場(現・国立競技場)で約2万5千人の学生が銃を担いだりしながら行進しました。文部省(当時)が開いた「出陣学徒壮行式」です。敗戦の色が濃くなった1943年、徴兵が猶予されていた学生をも戦場に送り込んだ「学徒出陣」。慶応大文学部2年だった岩井忠正さん(93)=東京都小平市=も、その一人です。高校2年生の柴野風花さん(17)と専門学校に通う米山青空さん(18)が岩井さんを訪ね、交流しました。 岩井 壮行式の日は雨が降っていたことぐらいしか覚えていないんだよ。ずぶぬれで、足元はぐちゃぐちゃ。学校には全員に渡るほどの銃がなかったので、僕は持たなかった。 青空 壮行会が開かれたとき、戦争への思いはどのようなものでしたか。 岩井 壮行会があったからって「やってやる!」なんて、気持ちになったわけじゃない。当時、少なくない学生は何のためにたたかうのか、何のために死ぬの
70年前のきょう、明治神宮外苑(がいえん)競技場で文部省主催の「出陣学徒壮行会」が盛大におこなわれました。映像でよく流れる「学徒出陣」の式典です▼日本の敗戦が色濃くなるなか学生の徴兵猶予がなくなり、1943年12月、20歳に達した法文系の学生らが、ペンを銃にもちかえ入営。日本近代教育史上かつてない悲劇を生み出しました▼いったいどれだけの学生が、どの大学から戦地へ送られたのか。NHKが最近、170の大学などからアンケート調査をしました。出陣数を把握しているのはわずか49校、その数約4万人で、戦死者は34校、約4千人と報道。旧文部省が調査せず、全体像すらわからないずさんさです▼戦没学生の手記を集めた『きけ わだつみのこえ』には、特攻出撃を前にしての切迫した苦悩や、恋人、家族への思い、書物への渇望などが記され、胸をうちます。戦争批判も見られますが、皇国史観の影響も強く、強制された死を自らに納得さ
「日本は戦争をしない国になった。学校でそう教えられた日のきれいな青空は今も忘れられません」▼「憲法を考える日本ペンクラブの集い」(10日)で作家の阿刀田(あとうだ)高さんは語りました。軍人になって国のために死ぬんだと思っていた少年は1945年8月、疎開先の新潟県長岡市ですさまじい空襲に遭い、母と子のおびただしい焼死体を見ます。10歳でした▼衝撃と悲しみ、怒り。「アメリカに復讐(ふくしゅう)する」と決意を固めるも、間もなく敗戦。国民学校に戻ってしばらくしたある日、国語の先生がこれからの日本の平和主義について話してくれました▼「戦争をしないという手があったのか!」。恨みに燃えていた心が一転、頭上の青空のように澄み渡り、洋々たる未来に胸が高鳴りました。「日本国憲法は、世界を信じます、丸腰になります、と宣言した。平和憲法を守ることは命がけだと思っています」▼パネリストの作家たちは、それぞれの人生と
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く