タグ

戦争と過去の歴史に関するmsyk710513のブックマーク (67)

  • きょうの潮流 2015年7月23日(木)

    戦争法案の議論で「後方支援」という造語を忘れ、安倍首相も使うようになった「兵站(へいたん)」という任務。戦前の日軍では、武器・弾薬、料の輸送を輜重(しちょう)兵が担いました▼軍隊の中で差別、蔑視され、昼夜・天候の区別なく1日に何十キロと行軍する、つらい体験を語る人は少ない。その中で『日中戦争従軍日記―一輜重兵の戦場体験』は、2年間の実態を克明に伝え、貴重です。筆者は、27歳で出征した小学校教員、小原孝太郎氏(1980年没)。と生まれたばかりの子がいました▼輜重兵は、料や馬のえさの徴発(ちょうはつ)に出かけ、手榴弾(しゅりゅうだん)で反撃を受けるケースも多かったようです。いつのまにか200メートル先に敵の正規軍が迫り、「いよいよ最後か」と覚悟したこともありました▼南京近くでは別の輜重隊が、中国兵千人に遭遇し兵糧(ひょうろう)、弾薬を狙われました。「銃はないので、牛蒡(ごぼう)剣で中隊

    きょうの潮流 2015年7月23日(木)
    msyk710513
    msyk710513 2015/07/23
    兵站は立派な攻撃対象、分かってないと大変なことに。過去に学び、二度と戦争し無い道を続けよう。ましてWW2で侵略国家として世界に敵対した日本だ、その罪、何時までも忘れない。過ちは繰り返さない。
  • 負傷の友 壕に残した/「ひめゆり学徒隊」の戦跡めぐり/沖縄

    (写真)伊原第一外科壕(ごう)跡の碑の前で、戦争の悲惨さについて語る元ひめゆり学徒の島袋淑子さん(中央)ら=11日午後、沖縄県糸満市伊原(代表撮影) 太平洋戦争末期の沖縄戦で沖縄陸軍病院に看護要員として動員された「ひめゆり学徒隊」の足跡をたどる戦跡めぐりが11日、沖縄県で開かれました。ひめゆり平和祈念資料館が主催し、64人が参加しました。20年ぶりの企画で、85歳以上の8人の元学徒がバスの中や壕(ごう)の前で証言に立ちました。 暗い壕の中で 戦跡めぐりは、生徒らが通っていた沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校があった那覇市安里(あさと)からバスに乗り、沖縄陸軍病院や糸数アブチラガマ、ひめゆりの塔、伊原第一外科壕、解散命令後に追い詰められた荒崎海岸を回りました。 那覇市南東5キロの南風原(はえばる)町にあった沖縄陸軍病院。学徒たちは暗い壕の中で昼夜を分かたず働き続けました。師範科2年だっ

    負傷の友 壕に残した/「ひめゆり学徒隊」の戦跡めぐり/沖縄
    msyk710513
    msyk710513 2015/07/13
    同じ苦しみ、二度と誰にもさせたくない。ひめゆりの経験、今こそ。きな臭い今こそ逆流阻止へ。
  • 戦争法案の危険 歴史の事実で示す/“後方支援”の民間船も攻撃対象 神戸「戦没した船と海員の資料館」

    「後方支援」=「兵たん」を行う民間船も攻撃対象になり、犠牲者が生まれる―安倍政権が今国会で成立を狙っている戦争法案の危険性を歴史の事実が示す資料館が、神戸市にあります。(兵庫県・秋定則之) 日共産党の志位和夫委員長は、政府が「後方支援」と呼ぶ活動は国際的には武力行使と一体不可分の「兵たん」で戦争行為の一部だと、国会論戦や党首討論で、その違憲性を浮き彫りにし、安倍首相を追及しました。日米新ガイドラインでは、「中央政府及び地方公共団体の機関が有する権限及び能力並びに民間が有する能力を適切に使用」とされ、自衛隊だけでなく自治体、民間も戦争協力が求められ、米軍の起こす戦争に巻き込まれていきます。 民間船舶と船員 徴用され犠牲に 第2次世界大戦では、武器・弾薬・燃料・兵員などを戦場へ輸送し、石油や天然資源を日へ運ぶため、多数の民間船舶と船員が徴用され、犠牲になりました。 神戸市中央区にある「戦没

    戦争法案の危険 歴史の事実で示す/“後方支援”の民間船も攻撃対象 神戸「戦没した船と海員の資料館」
    msyk710513
    msyk710513 2015/07/05
    兵站も立派な戦争構成要素、法案推進派の言い分通用せず。過去の実例で悲劇を学び、今に生かすべし。戦争法案は廃案しかない。
  • きょうの潮流 2015年6月30日(火)

    四半世紀前の番組が胸に刺さりました。NHKアーカイブスで再放送された「ドキュメント 太平洋戦争 大日帝国のアキレス腱(けん)~太平洋・シーレーン作戦」。当時の戦争指導者が、日の国力を度外視して、いかに戦線を拡大し、破たんを招いたか。海上輸送に焦点をあてた番組です▼資源の少ない日にとって、頼みの綱は南方からの資源輸送ルートでした。しかし護衛艦もないまま単独航行をさせられていた日の輸送船は、アメリカの潜水艦などによって次々沈められます。日戦争指導者が、潜水艦から輸送船を守るために重い腰をあげたときは、もう手遅れでした▼当時の映像に、南方から日に持ち込もうとしていたコメが、米軍によって海中に捨てられている様子が残っていました。船は小型の木造船。大型船の大半を失った日は、何の装備もない木造船まで輸送船として動員したのです▼「兵庫民報」21日号が、神戸市にある「戦没した船と海員の資料

    きょうの潮流 2015年6月30日(火)
    msyk710513
    msyk710513 2015/06/30
    過去を顧みれば、二度と戦争しない誓いの素晴らしさが輝く。逆流に抗して闘う時だ、貴方も戦争法案反対で。
  • きょうの潮流 2015年6月29日(月)

    私たちの未来のためにたたかう、と立ち上がる若者。わが子を戦場に送らせないと声を上げる母親。手をつないで平和の輪をつくる女性たち―。いま、全国で燃え盛る戦争法案反対の運動。それぞれが自分らしくアピールする姿が頼もしい▼「最後の力を出して戦争に反対する行動を起こしたい。国会前で抗議の座り込みをしてもいい」と、反対集会に駆けつけた93歳の瀬戸内寂聴さん。病み上がりの体に力を込め、二度と戦争をくり返してはならないと訴えました▼命の奪い合いにつながる法案を空理空論でこじつける。批判に耳をふさぎ、強引に傲慢(ごうまん)に突き進む政権。戦後70年間、ひたすら平和な世を望んできた戦争体験者の怒りや切迫感が伝わってきます▼今年、七巡り目の未(ひつじ)年を迎えた84歳の松野由(より)子さんもその一人。「独りデモ」と称して、25年前に教諭を退職した際に教え子たちが編んでくれた冊子『“戦争の子”のバトンを渡します

    きょうの潮流 2015年6月29日(月)
    msyk710513
    msyk710513 2015/06/29
    現代につながる課題。戦争法案を許してはいけない理由が過去の痛苦の経験にも。戦争を知る世代が力振り絞って世に訴えるんだ、僕らもできることを、戦争法案反対の闘いを。
  • 沖縄戦70年式典/ 戦争法案と新基地推進/安倍首相に県民の怒り

    「帰れ!」「何しにきた!」。23日正午すぎ、沖縄県糸満市の平和祈念公園で開かれた戦後70年沖縄全戦没者追悼式。あいさつに立った安倍晋三首相は、出席者から次々と罵声を浴びせられました。 「平和宣言」を読み上げる翁長雄志知事には絶え間ない拍手と声援。首相は名護市辺野古の新基地建設強行に対する県民の生々しい怒りにふれることになりました。 首相はあいさつで「辺野古」に言及せず、国会審議に関わる発言もありませんでした。戦争法案に関わる国会審議に影響を及ぼさないよう、計算を働かせたとみられます。 ただ、その言葉はあまりにも空疎でした。 首相は70年前の沖縄戦で20万人もの人命が失われたことに言及した上で、こう言いました。「この70年間戦争を憎み、ひたすら平和の道を歩んできた私たちの歩みに誇りを持ち、これからも世界平和の確立のため、不断の努力を行っていかなければならない」 平和国家・日の象徴である憲法

    沖縄戦70年式典/ 戦争法案と新基地推進/安倍首相に県民の怒り
    msyk710513
    msyk710513 2015/06/24
    安倍への罵声は当然だね、国民の平均よりもっと強く、県民の怒りは湧き上がっている。沖縄戦を忘れない、詳細に至るまで記憶と記録にとどめ、二度と戦争しない誓いを。折しも世界史的に、戦争の違法化が進行している
  • 沖縄全戦没者追悼式での翁長知事の平和宣言

    23日の沖縄全戦没者追悼式での翁長雄志知事の平和宣言は、次の通りです。 70年目の6月23日を迎えました。 私たちの郷土沖縄では、かつて、史上稀(まれ)に見る熾烈(しれつ)な地上戦が行われました。20万人余りの尊い命が犠牲となり、家族や友人など愛する人々を失った悲しみを、私たちは永遠に忘れることができません。 それは、私たち沖縄県民が、その目や耳、肌に戦(いくさ)のもたらす悲惨さを鮮明に記憶しているからであり、戦争の犠牲になられた方々の安らかであることを心から願い、恒久平和を切望しているからです。 戦後、私たちは、この思いを忘れることなく、復興と発展の道を力強く歩んでまいりました。 しかしながら、国土面積の0・6パーセントにすぎない県に、日米安全保障体制を担う米軍専用施設の73・8パーセントが集中し、依然として過重な基地負担が県民生活や県の振興開発に様々な影響を与え続けています。米軍再

    沖縄全戦没者追悼式での翁長知事の平和宣言
    msyk710513
    msyk710513 2015/06/24
    歴史の教訓汲み取った宣言の重みを政府与党は噛みしめるべし。9条生かし平和国家で、基地の無い沖縄を。
  • 主張/沖縄「慰霊の日」/戦争の惨禍を再び起こさせぬ

    きょう沖縄は、「慰霊の日」を迎えます。70年前の1945年、「ありったけの地獄を集めた」と形容される沖縄戦で日軍の組織だった抵抗が終わった日とされます。沖縄戦最後の激戦地、摩文仁(まぶに)の丘にある平和祈念公園(糸満市)では、県主催の「戦後70年沖縄全戦没者追悼式」が開かれます。式典に出席する安倍晋三首相は、戦争法案を画策し、日を再び「戦争する国」にしようとしています。沖縄の「慰霊の日」に込められた「戦争による惨禍が再び起こることのないよう」(県条例)にするとの県民の切なる思いを踏みにじることは許されません。 「沖縄らしさ」の原点 「艦砲ぬ喰(く)ぇー残(ぬく)さー」(艦砲の喰い残し) 45年4月、米軍が沖縄島に上陸した地点の一つ、読谷村の海岸線に、こう題する歌の碑が立っています。「艦砲ぬ喰ぇー残さー」とは、「鉄の暴風」と呼ばれた米軍艦の激烈な艦砲射撃をくぐり抜け、生き延びた人々のこ

    主張/沖縄「慰霊の日」/戦争の惨禍を再び起こさせぬ
    msyk710513
    msyk710513 2015/06/23
    見出しの通り。悪い過去の再来はお断り、悪い政権に立ち向かう闘いを国民規模で。
  • きょうの潮流 2015年6月23日(火)

    南の島に夏を告げるテッポウユリ。その白い大きな花が咲き乱れる中で生まれた沖縄の少女はユリと呼ばれ、元気に育ちます。しかし、家族に囲まれた幸せな暮らしは突然“鉄の暴風”にさらされます▼圧倒的な兵力と最新兵器で攻撃してくる米軍。守ってくれるはずの日兵にもガマ(洞窟)から追い出され、集団自決を強いられる。生き残ったユリは孤児院で来る日も来る日も母を待っていた―▼沖縄の郷土史家・大城将保さんが見聞きした実話をもとに書いた『石になった少女』の悲しい物語です。あらゆる地獄を集めたといわれ、県民の4人に1人の命が奪われた沖縄戦。70年たった今も多くの人びとが心に大きな傷を抱えています▼土防衛の捨て石と位置づけられ、軍民一体化のもとで住民の命とひきかえに続けられた地上戦。時間を稼ぐために戦いを引き延ばした島の南部では最も犠牲者を出し、今年も遺骨が見つかっています▼逃げ場を失い、次々と身投げした南端の一

    きょうの潮流 2015年6月23日(火)
    msyk710513
    msyk710513 2015/06/23
    過去に学び今の闘いへ生かす。皆、平和を守るために安倍政権を追い詰める闘いを、壮大な規模で。歴史の岐路だ。
  • きょうの潮流 2015年6月19日(金)

    軍事の天才と評されたナポレオンは、当時としては革命的な一歩を踏み出したといわれます。軍隊化された正規の補給部隊をつくり、引き連れたのです▼イスラエルの軍事学者が主に欧州の戦史を兵站(へいたん)の観点から研究した『補給戦』に詳しい。それによれば、軍隊を動かし、糧や弾薬を補給する兵站は戦いの勝敗を決してきた。「戦争のプロは兵站を語り、戦争の素人は戦略を語る」といわれるゆえんだと▼戦争を見れば見るほど、いかに管理と輸送に依存しているかがよく分かる。その兵站が軍事攻撃の格好の標的になることは「世界の常識であり、軍事の常識だ」。党首討論で共産党の志位委員長が迫りました▼安倍首相も兵站は「極めて重要」であると認めました。これまで自分たちで勝手につくった「後方支援」という造語でごまかしてきたものが、討論では「兵站」を連発。早くも化けの皮がはがれてきました▼首相は安全な場所で物資を渡すのが「常識」といい

    きょうの潮流 2015年6月19日(金)
    msyk710513
    msyk710513 2015/06/19
    兵站が先頭と切り離せないことが分かるね、合わせて戦前旧日本軍の兵站軽視の弊害も、戦争における兵站の重要性を語る。政府与党の詭弁が通用しないことの証左。戦争法案は廃案しかない。歴史の岐路で貴方も闘いを。
  • 2015 とくほう・特報/戦後70年―日本の戦争を考える/■ マレー半島での華僑虐殺

    軍による一般住民の虐殺はシンガポールにとどまりませんでした(4月27日付で「シンガポールの『華僑粛清』」掲載)。第25軍(山下奉文(ともゆき)=司令官)の戦闘部隊は、1942年2月15日にシンガポール戦が終了すると、一度南下したマレー半島に戻っていき、「敵性華僑狩り」という名で中国系住民の虐殺をはじめました。(山沢猛) 福岡県久留米市で編成された第18師団が南部のジョホール州を、広島城に司令部があった第5師団は、同州以外の半島全域を担当して分散します。そして軍司令官命令にもとづいて42年3月のほぼ1カ月間、マレー半島全域で蛮行を行いました。 東南アジアの被害者が証言 日軍の蛮行の被害者をマレーシアから招いて「証言集会」を開いてきたのが「アジア・フォーラム横浜」(吉池俊子代表)です。1994年以来毎年、アジア・太平洋戦争開戦の12月8日の前後に、東南アジアの証言者を中心に開催し昨年で2

    2015 とくほう・特報/戦後70年―日本の戦争を考える/■ マレー半島での華僑虐殺
    msyk710513
    msyk710513 2015/06/09
    まさに動かぬ証拠。これでも否認するのは通用しない、歴史の事実。なぜ大虐殺を実行したか、旧軍の体質が理解の助けになるかも。様々な文献で言及されているからそちらも。兎に角政府の責任とはいえ加害責任を忘れぬ
  • きょうの潮流 2015年6月8日(月)

    千人針に慰問袋、米や燃料の配給切符、紙製の衣服、「何がなんでもカボチャを作れ」と記された『戦時農園講義録』、防空訓練で使われた防毒マスクと警報機…▼東京の台東区立下町風俗資料館では、戦後70年を記念して、戦時下の暮らしを伝える多様な資料を展示しています。日中戦争が激化する中、1938年に施行された国家総動員法によって、日々の衣住すべてが戦争に巻き込まれていく様子が迫ってきます▼再現された灯火管制下の部屋は、電灯のかさに黒い布をかぶせ、窓一面に白い紙の目張り。座っていると、国家に光を奪われていく不安と、もしこうこうと明かりをつけたら非国民として糾弾されるに違いないという恐怖にとらわれます▼当時の婦人雑誌には、古着を仕立て直して機能的な服を作る特集が掲載され、型紙の付録も。乏しい配給を補うため家庭菜園の野菜を使った料理の紹介もあります。メディアがどのようにして女性を戦時体制へと動員していった

    きょうの潮流 2015年6月8日(月)
    msyk710513
    msyk710513 2015/06/08
    読売や産経を鵜呑みにしている人には薬として、大勢には警鐘として、赤旗読者には決意を固める文書として、今日のコラムを読もう。国家に強制される戦争は二度と繰り返すな。9条蹂躙許さない。
  • きょうの潮流 2015年5月22日(金)

    長野県上田市にある平林堂(へいりんどう)書店は隔週で地域の情報紙に売れ筋ランキングを発表しています。そこでちょっとした“異変”が起きているそうです▼2位、1位、2位。ことしの屋大賞に選ばれた『鹿の王』などを抑え、不破哲三さんの『「科学の目」で日戦争を考える』が最近の上位に入っているのです。民主書店とはいえ、さまざまな一般書が並ぶ大きな屋。担当者も「レジの横に置き書評も紹介しているが、ここまで売れるのは珍しい」と▼手にとる人のなかには遠来者や若者の姿も。戦後70年の節目にあの戦争は何だったのか、改めて考えてみたいという人が増えているのでは。担当者はそういいます▼党首討論で共産党の志位委員長が安倍首相の戦争認識を聞きました。あれは間違った戦争か、正しい戦争か。しかし、戦争の惨禍をくり返してはならないといいながら、最後まで「間違った」とは口にしませんでした▼先の大戦で日降伏の条件を定め

    きょうの潮流 2015年5月22日(金)
    msyk710513
    msyk710513 2015/05/22
    僕も買って読んだ、2日あれば読めた。当然のことを事実に基づいて述べて居るまで、これを攻撃するなんて考えられない。まあポツダム宣言無視の首相も居る日本だしなあ。
  • きょうの潮流 2015年5月18日(月)

    ことしの沖縄の梅雨入りは平年よりも遅れているそうです。青い空に肌をなでる風が心地よい。そんな初夏の季節を暗いガマの中で過ごした日々があります▼沖縄が戦場となったあの時。ひめゆり学徒隊だった島袋淑(よし)子さんは2カ月間も壕(ごう)に入りました。昼も夜もなくつづく負傷兵の手当て。暗闇の中に血やふん尿の臭いが充満します。下あごを吹き飛ばされた人、麻酔もなく手足を切断される人。叫び、うめき、死体…。そこは地獄でした▼惨禍は壕を出てからも。砲弾の中を逃げ惑い、目の前で仲間が次々と傷つき、倒れていく。死の彷徨(ほうこう)です。70年前、沖縄に刻まれた凄惨(せいさん)な体験。後にひめゆり平和祈念資料館の館長となった島袋さんは「戦争を知ってしまった私たちは二度とそれを許さないと誓った」。沖縄の原点です▼土復帰を果たしてから43年目を迎えた今、原点に寄せる思いはさらに。戦後も重くのしかかってきた米軍基地

    きょうの潮流 2015年5月18日(月)
    msyk710513
    msyk710513 2015/05/18
    過去を思い、基地押し付け許さぬ闘いへ。島ぐるみの闘いに全国が連帯しよう。まずは辺野古守ろう。
  • 2015 とくほう・特報/戦後70年―日本の戦争を考える/シンガポールの「華僑粛清」/一般住民を占領後殺りく

    今年は、第2次世界大戦が終結して70年です。日共産党は第3回中央委員会総会(1月20日)で、「戦後70年の年に、『あの戦争は何だったのか』について、国民一人ひとりが正面から向き合い、考えること」を呼びかけました。靖国神社の軍事博物館「遊就館」が日戦争を「アジア解放の戦争だった」と正当化するなど、歴史偽造の議論が日政治にもちこまれているなか、あの戦争がどのような戦争だったのか、シリーズで考えていきます。 シンガポール市街地の中心部に高さ約68メートルの塔がそびえています。この塔の名前は「日占領時期死難人民紀念碑」で、日ではよく「血債の塔」と呼ばれます。塔の下には、日軍によって虐殺された人たちの遺骨が数多く眠っています。 塔の台座には碑文があり、その一つには「深く永遠の悲しみとともに、この紀念碑は、日軍がシンガポールを占領していた1942年2月15日から1945年8月18日まで

    2015 とくほう・特報/戦後70年―日本の戦争を考える/シンガポールの「華僑粛清」/一般住民を占領後殺りく
    msyk710513
    msyk710513 2015/04/27
    事実を無視する逆流に毅然と立ち向かい、真実に基づく認識と、過去に誠実な姿勢を。事実に学ばなくなったら破滅だ。
  • きょうの潮流 2015年4月16日(木)

    バルト海に面する、ポーランド最大の港湾都市グダニスク。交通の要所として、古くから支配の荒波を受けてきた町です。第1次大戦後はどこの国にも属さない自由都市ダンツィヒとなり、多くの民族が集まりました▼そこで生まれたドイツの作家ギュンター・グラスが故郷を訪ねたとき、1枚のボロ布を贈られます。それは子ども時代に翻っていた共和国の旗。「ある日、ナチの軍隊が進撃してきて彼らの旗を掲げた。それからというもの、何もかもがめちゃめちゃになった」▼ナチスによって蹂躙(じゅうりん)されていく町や戦争に染まっていく市民の様子を間近で見てきた少年。彼の体験は、3歳で成長を止めたオスカルの目を通して、「ブリキの太鼓」に描かれます▼民族のはざまで揺れ、暴力や国家に翻弄(ほんろう)されてきたノーベル賞作家は、言葉の力を信じるとともに、政治や社会にたいして声を上げることを惜しみませんでした▼米国のアフガニスタン戦争を「多く

    きょうの潮流 2015年4月16日(木)
    msyk710513
    msyk710513 2015/04/16
    ドイツか負の過去から逃げず、正面から向き合う誠実さで、周辺国の信頼を回復した。日本となんと違う事か。道理なき戦争の罪は重い。因みに、グダニスクと言うとワレサを思い出す。労組議長から後に大統領になったね
  • きょうの潮流 2015年4月11日(土)

    酷寒の満州から赤道直下の島々へ。サンゴ礁に囲まれ、七色に輝く海と青い空。「きれいだな」。あまりの美しさに、派遣されてきた関東軍の兵士から思わず声がもれました▼大半が20代前半だった彼らに課された任務は、守備隊として一日でも長く米軍を引き留めること。バンザイ突撃などせず、陣地戦に徹して持久戦に持ち込む。フィリピンや土防衛のための時間稼ぎ、捨て石となれ―。それが大営の命令でした▼カニの爪に似た長さ9キロ、幅3キロの小島。そこでくりひろげられた死闘は、4倍もいた米兵さえ「人肉粉砕機に放り込まれた」というほど凄(せい)惨(さん)を極めました。「敵の死体の上に味方が倒れ、その上にまた敵の兵隊が倒れてきた」▼2カ月余で日兵1万人が犠牲になり、米兵9千人が死傷した殺し合い。それがパラオ・ペリリュー島の死闘でした。当時の昭和天皇は「ますます奮闘するように」と激励し、壊滅するまでペリリューの状況を聞く

    きょうの潮流 2015年4月11日(土)
    msyk710513
    msyk710513 2015/04/11
    同じ天皇でも大違いだ。きな臭い昨今こそ、平和の大切さ・平和憲法を高く掲げて、逆流に立ち向かおう。戦争は不幸を生むばかり。過去に学ぶなら、二度と戦争しないことだ。
  • きょうの潮流 2015年4月8日(水)

    最新式の無影灯まで備えつけられ、大病院の手術室そのものだった―。『長寿を科学する』の著者で医学博士の祖父江逸郎さんはあの戦艦大和の軍医でした▼臨床や病理検査室、レントゲン室までそろった「大和」は医療設備の点からも世界一。そう証言する祖父江さんは当時、乗員の診察に多忙を極めました。戦闘時以外にも毎日の特訓とストレスで発病者が多く、感染症に苦しむ者もいたと▼70年前の1945年4月7日。米軍との地上戦が始まっていた沖縄をめざした「大和」は鹿児島の南海上で攻撃を受けて沈没しました。乗員3300人余のうち生存者はわずか276人。無謀な特攻作戦は“一億総特攻の先駆け”として決行されたのです▼「何のために死ぬのか」。最後は竹の棒で敵機と対峙したという中谷健祐さんは、「大和」が沈んで海に飛び込んだ瞬間が海軍生活で最も幸せなときだったといいます。「あー、やれやれ、これで生きられる」と思いながら▼きのう広島

    きょうの潮流 2015年4月8日(水)
    msyk710513
    msyk710513 2015/04/08
    二度と戦争しない誓いがいかに大切か、表面で惑わされず、大局で地域のそして世界の平和を構想しよう。安倍逆流に抗して平和の対案を掲げて。
  • きょうの潮流 2015年3月30日(月)

    桜の季節が巡ってきました。桜の名所、東京・目黒川のほとりの郷(さと)さくら美術館では、第3回桜花賞展が開催されています。若手日画家30人が描いた、それぞれの桜▼爛漫(らんまん)と咲く桜、散りしきる桜、どの作品も、どこか痛みを感じさせます。桜には、過ぎ去って帰らないもの、失われてしまったものの面影が二重写しになるのかもしれません▼古代の桜は山深くひっそりと咲いていたのでしょうか。『万葉集』には〈阿保山(あほやま)の桜の花は今日もかも散り乱ふらむ見る人無しに〉(詠人(よみびと)しらず)と歌われています。『古今和歌集』の平安時代には〈見渡せば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける〉(素性(そせい)法師)と、都の町並みを彩る花へ▼そしていつしか、満開の豊かさよりも、吹雪のように一斉に散る風情が注目され始めます。赤穂浪士(あこうろうし)のあだ討ち事件を題材とした江戸時代中期『仮名手忠臣蔵』には、「花

    きょうの潮流 2015年3月30日(月)
    msyk710513
    msyk710513 2015/03/30
    桜を軍国主義に再び利用させない誓いを。きな臭い今こそ。今、歴史逆行止めねば。
  • 沖縄・座間味村 地上戦から70年/「集団自決」遺族ら「平和之塔」に献花

    アジア・太平洋戦争の末期、沖縄県の慶良間(けらま)諸島に米軍が上陸して沖縄で地上戦が始まった1945年3月26日から70年を迎えた同日、最初の米軍上陸の地となった座間味(ざまみ)村で村主催の「慰霊祭」が営まれました。 70年前の3月23日、米軍は慶良間諸島に激しい砲撃を行い、26日に座間味村の島々、27日に渡嘉敷(とかしき)村の島々に上陸しました。多くの住民が犠牲となり、日軍が強制し、家族が殺し合う「集団自決(強制集団死)」も起きました。 遺族代表としてあいさつした平田文雄さん(85)は「70年前の今日この地において苛烈なる戦闘が行われ、多くの村民、私たちの親兄弟、親族も残念ながらこの地で命を絶たれる運命となりました。私たち残された遺族もこの地の歴史を子や孫に伝え、歴史が風化しないように努め、次の平和へつなげていきたい」と述べました。 中学生3人が「受け継がれた命を大切にし、この美しい島

    沖縄・座間味村 地上戦から70年/「集団自決」遺族ら「平和之塔」に献花
    msyk710513
    msyk710513 2015/03/27
    地上戦の悲惨さ味わった沖縄を踏みつけて辺野古基地強行の日米政府に怒り新たに。両政府高官は生存者の証言を聞きに来るべきだ。